海路による修学旅行

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 尻岸内椴法華尾札部近村においては、昭和初期に至っても道路の整備が充分でなかったため自動車の運行ができず、陸路による旅客・貨物の輸送はほんの少ししかないような状況下に置かれていた。このため旅行者の大部分は海路を利用して函館へ出て、そこから東京・札幌方面の目的地へ向かうか、あるいは椴法華から海路森へ出、それから道内各地へ海路や陸路をとって目的地へ向かうのが普通であった。
 次にその一つの例として昭和四・五年の椴法華小学校の修学旅行について記すことにする。
 
   昭和四年五月二十二日 函館日日新聞
   椴法華修学團
   小学校尋常六年及高等科を以て組織せる修学團七十名は大立目校長佐藤辻教師引率児童保護會父兄数名附添二十日午前八時神社参拝の上昭星丸に便乗鹿部へ上陸大沼清遊の上函館見学四帰校の豫定にて出発せり當日は父兄の見送多く、棧橋に時ならぬ賑ひを呈せり
 
   昭和五年五月二十日  函館新聞
    椴法華
   本村尋常高等小學校生徒六學年男女九十五名は職員三名保護會役員数名に引率せられ十八日午前六時本村波止場より渡島汽船會社渡島丸乗船修學旅行に出発せり同日函館上陸五稜郭を見學同夜連絡船にて青森を経て弘前及淺虫温泉に至り二十日午後函館に帰路市中見學二十一日帰校の豫定なり