弘化二年(一八四五)から同四年の見聞をまとめた松浦武四郎の「蝦夷日誌」は、水無浜から磯谷村までの海岸線の様子を次のように記している。(要約)
水無濱 少しの砂浜、無水より此名あるかと思う。昆布取小屋有、人家も二、三軒、近来漁事の便りなるが故にここに住すとかや、村の両傍怪岩重畳たり。布海苔、海苔、薢蔀草多し。少しの岩角を廻りて
カヂカソリ 此浜恵山の東南の岬に当る。岩磯平坦にしてカヂカ多く生ずる故に号るかと思わる。
二、三十丁海中に
海馬岩 海中に在り、海馬常に此岩に多く有よし。根田内、尾札部の村境とす。越て
赤禿(ハゲ)岬 恵山の第一岬なり、波浪荒くして小舟甚危し、岩崖伝ひしばし行て
磯谷村
このように恵山岬は江戸時代より内外に知られていたが、恵山岬の絶景を目にすることが出来たのは、ほんの一部の人達であり、一般化されるのには、沿岸航路が発達する大正時代末頃を待たなければならなく、更に団体の旅行団が入り込むのは、バス路線が椴法華村まで延長される昭和八年を待たなければならなかった。