恵山大権現

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 元禄十七年(一七〇四)『正光空念納経記』によれば次のように記されている。
 
    恵山大権現
   本地千手観音       五月十七日
   奉勧請地神三代〓々杵尊(ニニギノミコト)  六月十七日
   東嶽〓竭羅(シカツラ)龍王第三豊玉姫尊(ミコト)
 
 この記録は正光空念により、元禄十七年に納経された場所とその祭の日を示したものであるが、前項で記した『八幡神社明細書』の記事と、この記事を参考に恵山大権現の創立年代を推定すると次のように考えられる。
 延宝年中に創立された恵山八幡宮(八幡神社明細書)が現在の恵山権現の位置に存在しており、その後この社に権現が合祀の形で祭られ、そこへ元禄十七年、全国行脚の途中の正光空念が立ち寄り納経したものであろう。
 その後八幡神社は文化初年(一八〇四ごろ)に椴法華村矢尻浜(現在地)へ移り、権現のみが山上に残り現在に至っているものと推定される。
 さらに安政二年(一八五五)の『東蝦夷地海岸図台帳』によれば、「ゑさんの川原より恵山御殿まで登り七百廿間、この所に秋葉山あり薬師堂入組てありいつの此建立有や年数さざかならず、阿呼持也。」と記されている。
 また安政三年(一八五六)の『蝦夷行程記』によれば、「恵山上の宮あり、宮は石なり、鳥居は木なり」とも記してある。
 前掲の『壬申八月巡回御用神社取調』(明治五年)によれば次のように記録されている。
 
    亀田郡尾札部村枝郷椴法花恵山絶頂
   △ 秋葉社 木像、不動ニ均シク白狐ニ乗ル。廃物改祭同前
     祠   三尺ニ五尺
     起元不分明
     右ハ福山阿吽寺修験年々来テ祈禱ス。御改正ノ上ハ修験復飾又ハ亀田村神職ヘ可任申聞候処、亀田神職ヘ可頼書面差出候事。

椴法華八幡神社「江山大権現」の掛ヶ物