弘化二年恵山の硫黄自然発火

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 弘化二年から四年に至る(一八四五-四七)記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』には、弘化二年の恵山硫黄の自然発火について次のように記している。
 
   弘化二乙巳六月十一日夜、恵山西手に当り火燋上り半天に輝き、さして山動地響もなかりしが、火光焰々として近村シマトマリ・椴法華・根田内村三ヶ村大に騒動して、殊に山上に湯治場有之処、此頃七・八人も上り居候処、温泉小屋より五丁斗相隔り卯の方夜八ツ時頃に燃出し、右湯治人も早々遁去り村役人へ為相知候処、村継早くしらせ参候。則私共下役二人召連急ぎ出張仕候処、同十三日九ツ過に当着仕候。湯治場迄参り候人足二百人斗にて湯水を汲かけ候へども、凸凹たる燋石山にして嶮岨中々に運送しがたく致し居候処、只硫黄多き筋上宮の方に燃来らん事のみ、野宿いたし居候処、北の方は凡赤土の場に至り、最早消口に相成候得共、又々東の方山の方に燃出し如何とぞんじ候処、十五日朝より雲行悪東風吹来り雨も降候処、追々大雨に相成候。九ツ前にては車軸を流す斗に相成、其故に燃納申候。扨(さて)、此処の火は地底より燃出し候火にては無之、上辺に有之候硫黄に火燃付候事に候間、地鳴山震候事無之候よし。嶋りに居候秋田生の徳左衛門と中明礬取の申よしに御座候。惣て当山の硫黄は三尺より四尺、深き処八尺程土中に有之候よし。実に左様にぞ思われる様に御座候。
  其に付候へども椴法華・根田内・シユマトマリ村々昆布稼のもの皆船にて遁去候。時節柄と申ながら大に漁猟の妨に相成候事に御座候。下略
   月日                            何某
  則、此書状は余東部蝦夷地に在し頃、知音のものよりしらせ来り候ままを此処に挙て其事実をここにしらしむるものなり。此度此処を通り其焼跡を見るに、幅凡十七・八間、長二十四・五間の間燋失て一つの凹となりたり。
 
 文中に「此処の火は地底より燃出し候火にては無之、上辺に有之候硫黄に火燃付候事に候間、地鳴山震候事無之候よし。」とあることより、六月十一日夜の恵山の発火現象は、恵山の噴火ではなく硫黄の自然発火によるものであろうと考えられる。