ラックスマンの来航

1205 ~ 1206 / 1354ページ
 寛政四年(一七九二)九月ロシア使節ラックスマン、ロシア皇帝エカテリーナ二世の命令により、日本人漂流民幸太夫等を伴い根室に来航し交易を求める。
 松前藩はラックスマンの来航について直ちに江戸幕府に報告、江戸幕府は熟慮相談の結果、特に福山(現在の松前)で幕府の宣諭使(将軍の命令を伝える者)と引見させ、国法である鎖国について云い聞かせ帰国させることにした。(ラックスマンは、根室で越年)
 幕府は寛政五年(一七九三)ラックスマン等を陸路により福山へ移動させようとしたが、ラックスマンはこれを拒否し、海路砂原まで航行し、砂原から陸路福山に至る手はずとなった。しかしこれもまた水先案内人の不備や天候不順のために計画通りにはいかなかった。このためラックスマンは、同年六月に箱館に入港してきたのである。
 その後、ラックスマン等は箱館から陸路福山に向い幕府の宣諭使と会見した。宣諭使はこの時、ラックスマンより提出されたロシア皇帝の国書に対して長崎以外では受理できないと退け、交易については長崎で交渉するように申し渡し、なおこの時、長崎に来航するときの備えとして「信牌」を与えた。
 
   ラックスマンに与えた信牌
    おろしや國の船壱艘長崎に至るためのしるしの事
   汝等に諭す旨を承諾して、長崎に至らんとす。抑切支丹の教は、我國の大禁也。其像および器物、書物等をも持渡る事なかれ。必ず害せらるゝことあらん。此旨よく恪遵して長崎に至り、此子細を告訴すべし。猶研究して上陸をゆるすべき也。夫が為此一張を與ふる事しかり。
   寛政五年六月廿七日
    石川将監判此度政府の指揮を奉じてたまふ
    村上大学
                                       あだむらつくすまん
                                                え
                                       わしれい ろふちふ
 
 かくて六月八日以来箱館港へ入港していたエカテリーナ号は、七月十六日ようやく箱館港を出港した。この間箱館及び近村では、ロシア船警備のため大混乱となり、庶民の迷惑は図り知れないものであった。