新第三紀・鮮新世

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 南茅部町において鮮新世と考えられているのは、東海地区の磯谷川火山砕屑岩類と松倉川層であり尾札部地区には鮮新世の地層は見出されていない。東海地区の峠下砕屑岩類は中新世とも鮮新世とも決定出来ないので中新世―鮮新世とされている。
 松倉川層は函館市に属する松倉川の最上流部や、南茅部町の大舟川の最上流部に小範囲に分布している地層で、最下部は安山岩質の砕屑岩が堆積し、その上には炭化した木片や多量の浮石をはさむ泥岩がのり、さらにその上には薄い凝灰岩や砂岩と泥岩の細かい縞状の互層がやや厚くのり、最上部では泥岩中に多量の火山角礫を含む集塊岩状の岩相に変っている。このような層相からみて、湖成堆積物と考えられている。(五万分の一地質図幅・東海)。
 松倉川層の層厚は「大舟川流域で三〇メートル前後、松倉川上流部で七〇メートルと考えられている」(五万分の一地質図幅・東海)が、尾根をはさんで両側に分布する松倉川層の形成機構については明らかでない点もある。すなわち、①同一の湖に堆積した地層が、その後、地盤運動、地殻変動により分離するようになったものか。②もともと、松倉川の松倉川層と大舟川の松倉川層は別々の湖に堆積した地層であるか。③このような高位置に湖の形式された機構はどうであったか。④大舟川と松倉川の松倉川層の層厚には大きな差があるが、それは何を意味しているのか。
 このような問題点が残っているように思われる。
 松倉川層の時代については「化石上の証拠はまだ見出されていないが、磯谷川火山砕屑岩との関係や、現地形と全く無関係な分布を示すことなどから、鮮新世」(五万分の一地質図幅・東海)と考えられている。
 磯谷川火山砕屑岩類は「磯谷川流域を中心に、北斜面では雨鱒川流域から大舟川流域まで分布し、南方では袴腰岳南東の城岱沼付近までの広い分布を示している。この火山砕屑岩類はおもに集塊凝灰岩からなるが、部分的には凝灰角礫岩、凝灰岩、熔岩をはさみ、熔結凝灰岩をも伴っている。磯谷川火山砕屑岩類もその岩質的性質状から化石を見出すことは困難であり、地質時代を決めるのはむずかしいが、横津岳周辺の稜線上に分布し板状節理の発達した横津岳下部熔岩におおわれていることや、更新世早期と考えられている双見層に不整合におおわれていることなどから、一応、鮮新世に対比」(五万分の一地質図幅・東海)されている。
 鮮新世は新生代第三紀の最後の時代、つまり、六〇〇万年前から三〇〇万年前までの時期にあたり、つぎの更新(洪積)世につづく時代であるので、変動の大きな時代であるということがいえる。
 「鮮新世時代の古地理図」(第5図)(湊正雄監修・目で見る日本列島のおいたち)をみると、渡島半島は海退によりその全部が陸上に現われており、磯谷川火山砕屑岩類で示されるように火山活動は活発であり、それら火山より流れ出した熔岩や火山岩屑などにより、一時的な湖沼が生じ、松倉川層などはそのようにして作られたものと思われる。この湖が一時的であったことは、松倉川層松倉川層の地層に発達する褶曲構造や分布状態から、まだ固まらないうちにつよい構造運動を受けた」(五万分の一地質図幅・東海)と推定されていることからも知ることができる。

第5図 新第三紀・鮮新世の北海道古地理(湊正雄監修「目で見る日本列島のおいたち」による)

 鮮新世時代の特徴の一つは気候の変化である。すなわち、新生代第三紀は一般に温暖な気候がつづいてきたのであるが、鮮新世に入ると冷涼化への動きが見出される。鮮新世につづく更新世は大氷河時代ともいわれるように、温暖、寒冷気候の繰り返された大変動時代であるが、その前駆的な気候変化が鮮新世代において、すでに見い出すことができる。
 「大阪、播磨、京都、奈良盆地には第三紀末の鮮新世から第四紀更新世前期にかけての厚い陸成・浅海成の地層が堆積していることで知られており、大阪層群の名で呼ばれている。この層群は最下部、下部、上部の三層に分けられ、最下部と下部の境界は鮮新世―更新世の境界と考えられている」(市原実・平凡社地学事典)。
 「大阪層群最下部からはメタセコイア・フウノキ・バタグルミ・イチョウなどの温暖な気候を示す植物化石が含まれているが、大阪層群下部ではメタセコイア植物群は消滅に近づき、これに代わって、ミツガシワ、チョウセンマツなどの寒冷気候を示す植物遺体が出現しはじめる。このような温暖から寒冷への気候変化は、第三紀末から第四紀への気候変化に対比されると考えられている」(成瀬洋・第四紀)。
 以上は鮮新世から更新世にかけての厚い地層が連結してよく堆積していることで知られている大阪層群について述べたものであるが、この大阪層群を一例として、鮮新世の頃の気候について考えてみることにする。
 前述の記載でもわかるように、大阪層群の最下部の鮮新世と考えられる地層からは、温暖な気候を示す植物化石が多く出現したことから、鮮新世時代は温暖であったように考えられそうである。しかし、一般的には鮮新世にはすでに冷涼化への傾向が見受けられると考えられており、「中新世の中頃からは南方系の常緑樹が減ってきて、鮮新世になると東北地方より南には、なおも南方系の常緑樹が残っているが、北方系の植物が勢を増すようになってきた」(湊正雄、井尻正二・日本列島第二版)といわれ、これから推定すると、大阪層群の発達した南西日本に対し、北海道では鮮新世の頃には次第に冷涼化が進んできたものと思われ、南茅部町もその例外ではなかったと考えられる。また、「この頃(鮮新世)の海は、大平洋の方は、今の関東地方より北が冷たく、特に宮城、岩手、北海道各地からサハリンにかけて、冷たい海水がおおっていたようだ」(湊正雄監修・目で見る日本列島のおいたち)といわれるのも、こうした冷涼化の現われとみることが出来る。植物化石の上からも、「北海道から九州にかけての中新世末から鮮新世はじめの地層からは、ブナの葉化石が見出されているが、ブナ類は落葉・広葉樹林帯を代表するもので、四季の変化がはっきりした温帯に分布する樹木である」(棚井敏雄・日本列島のおいたち)、したがって、ブナの化石が見出されることは、鮮新世が温冷な気候であったことを示すものとみることができ、鮮新世時代には冷涼化が始まっていたとみることができる。