南茅部町の洪積世に層する地層には、尾札部地区では銚子岬、丸山火山噴出物と段丘堆積物、東海地区では双見層、磯谷礫層および段丘堆積物がある。銚子岬層は「一般に凝灰角礫岩と火山角礫岩よりなり、両者はそれぞれ二―三メートルの厚さをもち、互層をしている。ときには厚さ一五センチメートル程度の粘土の薄層をはさんでいる。この地層は地質時代を決める積極的な証拠はないが、軟弱な岩層を示していることと、断層の影響を受けていないことから、一応、下部洪積世と考えられている」(五万分の一地質図幅・尾札部)。
丸山火山噴出物は「おもに安山岩熔岩からなり、下部に厚さ数メートルの凝灰角礫岩を伴っている」(五万分の一地質図幅・尾札部)。
双見層は「下位層を基底礫をもって不整合におおい、砂と粘土、あるいは粘土と火山灰の互層、および砂と礫との互層などから構成され、亜炭層を介在している。一般に未固結であるが、砂層や礫層には褐鉄鉱がセメント物質になって、砂岩様あるいは礫岩様になっているものが認められる。この地層の亜炭層からは、メニアンテスや昆虫類の化石を産している。層厚は一〇―一五メートル程度で、大沼公園図幅中の文月層に対比され、この層が一五〇メートル以上と推定されているのに対し、双見層が非常に薄い厚さを示すのは、著しい構造運動と侵食作用のためと考えられている」(五万分の一地質図幅・東海)。このように、双見層からはメニアンテスが見出されるが、「この種子化石は日本をはじめ北半球各地の第四系から産し、第四紀の代表的化石の一つ」(鈴木敬治・地学事典)と考えられるので、双見層は第四紀に属することはあきらかで、「更新世早期に対比」(五万分の一地質図幅・東海)されている。
第6図 第四紀・更新世前期の北海道古地理(湊正雄監修「目で見る日本列島のおいたち」による)
磯谷礫層は「双見層を不整合におおって分布し、基底面はほとんど海水準近くから、標高三〇メートルまで変化し、かなり著しい凹凸を示している。この礫層は、ほとんど大部分がにぎりこぶし大から五〇センチメートルの直径の大きさの円礫あるいは亜円礫よりなる。礫の大部分は安山岩で占められ、層厚は大体二〇メートルほどである。磯谷礫層は一応更新世期に対比」(五万分の一地質図幅・東海)されている。
洪積世に対比される地層には、前述の地層のほかに段丘堆積物があるが、これらについては地形の項で説明することとする。
第四紀更新世になると水陸分布の状態は現在の形と大分近づいてくる。北海道全体の形は古地理図(湊正雄監修・目で見る日本列島のおいたち)のようになっており(第6図)、更新世前期と中期では、いわゆる石狩低地帯(石狩―勇払地帯)と根釧台地の大部分が海面下にあるのを除けば、ほぼ現在の北海道の地形に近くなっている。更新世後期になると、現在の北海道よりもはるかに広大な面積となってくる。すなわち、現在の噴火湾は陸地となり、道東では北海道本島が国後島と陸つづきになっており、北方ではソ連領サハリン(樺太)とも陸つづきとなり、礼文島や利尻島も北海道本島とつながっている。さらに、日本海にある武蔵堆も北海道本島に陸つづきとなっていた。
南茅部町は今から二〇〇万年前から八〇万年前までの更新世前期頃には、現在の形よりもやや海に面積を広げた形になっており、駒ヶ岳、恵山、函館山の火山活動もこの頃に始まったものと考えられる。更新世中期(八〇万年前から一五万年前まで)においては、南茅部町の面積はほぼ現在と同様であり、水陸分布の状態は現在とあまり変わらない。しかるに、更新世後期(一五万年前から一万年前まで)になると、海水準が現在よりもはるかに低い位置にあり、洪積世後期の最寒冷期には、一三〇―一四〇メートルも現在より低かったと考えられる。したがって、噴火湾はもっとも低い所で約一〇〇メートルであるから、その当時噴火湾全体は陸地になっていたわけで、現在の南茅部町から室蘭方面に陸地でつながっていたことになる。津軽海峡もその当時は太平洋からつづく内湾の一部であって、北海道と本州とは陸つづきであったかもしれないと考えられているようである。本州と北海道がつながっていなかったとしても、せまい水路をへだてて相対していたことは充分考えられることで、北海道とは本州との間の交流は可能であったと思われる。