弘化二年(一八四五)、松浦武四郎は、森より砂原をすぎ、沼尻から鹿部を記すあたりから「昆布取小屋有(こんぶとりごやあり)」という事項が目立つ。
沼尻 此辺転太浜(ごろたはま)。左右に昆布取小屋有。……余は 此処にて昆布取船の帰へるに便を乞ふてヲシダシヘ行くなり
明神
マツヤ崎
テケマ 人家壱軒。昆布小屋五、六軒も有る也。
モノミ浜 岩石大難処なり。昆布取小屋二、三軒。海岸磯草多し。
ホンベツ
シュクノッペ川
シカベ村 人家十軒斗(ばかり) 惣て当村懸りと云は五、六十軒も有よしなり。
サメトリ間
シシベ
ザル石 昆布取小屋有。此辺にて昆布は小石の上にて干が故に 砂気なくしてよろしきなり。惣て此シカベ懸りの昆布を第一とする由也。
トコロ川
トコロ 夷人小屋一軒。昆布取小屋左右に多し。
五段滝
ホロ 人家壱軒 夷人也。昆布小屋二、三軒有なり。
大岩
クロワシレ
クロワシレサキ
ヲムシャム 是より平地陸道有なり。……昆布小屋有。
磯屋 人家二軒、夷人壱軒有。然し夏分は昆布取にてにぎ合へり。
武四郎は、磯谷の温泉に一泊。昆布採りの漁師達と一夜を語り明かす。昆布の土産と餞別を贈られている。
ケムシトマリ 転太浜。昆布小屋有。
クマトマリ 人家十七、八軒。小商人壱軒。昆布小屋多し。
ヒロトマリ
ヲタハマ 訳て砂浜なり。昆布小屋有。
扨 昆布小屋のことをあまり多き様に閲人(みるひと)は思ふべけれども、此辺りに箱館西在并箱館町内、大野在中より出稼の人は中々すさまじき事にて、其多き年には浜に小屋を建て是に住居し居るに、其取りし昆布の干場もなく、やうやうと壱人前七尺位又は八尺九尺位より当らざる村も有べし。是にて其繁華を見るべし。
本邦にて松前にては古来より昆布にて屋根を葺と云は、皆此屋根の上迄昆布を干したるを見てかと思はる。
大船川
二艘トマリ
ヲヒカタ
峠
ヤシャシリ峠
臼尻村 人家五十余軒。小商人二、三軒。
カク子シュマ
ヒヤミヅ 此辺惣て昆布小屋立並たり。去る丁未(弘化四年、乙未であれば天保六年)の夏
昆布最中には、小商人、煮商店、妓、三味線引、祭文よみ等群集して、江差の浜小屋のごとく群集し、松前にては昆布にて屋根を葺と云は初て此辺にて解したり。其群集の時 朝六ツ頃より舟にて出、八ツ過に帰り、浜はをろか山根(やまね)迄干して暇なき故に、小屋の屋根迄も干こと也。
イタキ
清水川 人家五、六軒。同浜つづきなり。尤昆布小屋多し。
明神社
河汲村 人家二十余軒。
ツキアゲ 人家有……昆布小屋多し。
チョホナイ川 小流あり。昆布取小屋あり。転太石浜也。
尾札部村 ……人家八十軒斗。
バンノサワ
ヒカタトマリ (昆布の記録のみ抜粋)
武四郎はこの地方の昆布時期の盛況を細かに記している。
昆布採り小屋の賑わいと、漁師目当ての商人から妓(おんな)の来往などを記す。そのはじめは森を出立して沼尻(砂原町)にかかるところから文中に次第に多くなる。
武四郎が驚いて二度も書いている「昆布にて屋根葺(やねふ)く」の意味が分かったとしている熊泊(大船)と垣ノ島・冷水・板木(安浦)のところは、その賑わいがほうふつとされる記述である。