臼尻村の共同網の始めは弘化年間(一八四四~一八四八)以後である。明治一七年の境界訴訟事件の控訴状には「松倉ナル者文政年間鮭網ヲ製シ、初メテ之ヲ臼尻湾ニ投シ」とし、のちに松倉氏が廃業、二木柳庄三郎らが之を憂愁して村民らと相談してこの業を継いだと記されている。その境はチサンケ川沖合であったとも述べている。しかし、松浦武四郎が弘化二年(一八四五)の夏、臼尻に来たとき鰤の魚群があったが未だ定置網が本格化されていないことに触れている。小川幸吉の鮭(秋味)網と村方の網との境界争いに、六箇場所の役人ならびに村々の重立が和解のために立会したのが万延二年(一八六〇)のことである。これらを考えると村網は安政年間一八五四~一八六〇におこなわれていたとみて妥当であろう。もし文政年間の創業とすれば、東北大謀網の起源とされる文政年間と同時期となるので疑義が生じる。推定のできる村網の起源は安政年間前後とおもわれる。(詳しくは「臼尻村網方境界争い」の項に記す)
(2)尾札部村網
明治三〇年夏の尾札部漁業組合の共同網経営のとりきめ文書によれば、部落の網は共同の鮪の建網であった。 本籍、寄留にかかわらず三箇年以上当部落に住んで村部落の経費等を負担した者は、共同網に加入できる権利(資格)を認められた。
三年以上部落に住んでその資格を取得した者は、加入証書を部落惣代に提出するとその加入が認められた。
加入を認められ共有者となったものは、共同網の損益をすべて平等に負うことになる。
胴アバ・役アバ・エビスアバなど網の入口(家なら大黒柱の両側につける大きなアバで)網の形を固定させるための主要な資材は、専門の杣夫を雇い山中で造材させた。
役アバなどが仕上がると家々から人夫を出して、共同網の監査役が指定した海岸までみんなで搬送する。
小アバは必要な全量を各戸が分配して請負い、決められた日時までに各自手作りをして所定の場所に納めることになる。
船頭以下漁夫はすべて給料で雇われた。漁夫は三五名内外で、見日より後駒に順次地区ごとに抽籤によって選ばれた。
村の役人(やくびと)によって優秀な経験者を船頭に選び、漁夫は地域ごとに模範といわれる若者が選ばれた。
村網の漁夫に選ばれることは漁師の若者にとっても村内(むらうち)の漁家にとっても誉れであった。
建込(たてこみ)の海面は昭和五〇年代の㊆村上漁場が経営した南さけ・さば・いわし・まぐろ定第九号のやや上(かみ)寄り(西寄り)の位置であった。納屋は明治三〇年夏、尾札部川の左岸にある後駒共同海産干場に建てられた。
のちに尾札部川の右岸に移されたと佐藤忠雄(明治四二生)はいう。昭和の初めには〓内藤家の地所内に建てられた。
昭和に入ると区会の自営から入札による漁場貸に変わり、町外の経営者も請負うことが多く、昭和二七年の漁業制度改革までつづいた。
共同網の経営は七名の監査役が責任分担をして管理し、
1 創業準備 建網のからくり(建込)の一切と事前準備
2 守成方法
3 納屋取締
4 原料購入 資材等の買入れ
5 荷物売却 漁獲物水揚げの売捌き
6 損益勘定
七名の代表がいてこの総括にあたる。役員の任期は二か年であった。
明治三〇年ごろとり決めた文書に「尾札部村用事務所」の角印が捺印されている。
明治のはじめ以来、部落の公の仕事や自治活動を司ったところは、永く村用事務所とよばれて、官からの戸長役場と区別されていて、その主な事務が漁業組合の業務と重なっていたものと考えられる。
のちの部落会・常会・町内会などとよばれる地域の自治組織であるが、権限と実行力において比べものにならない絶対的な影響力をもっていたものとおもわれる。
村 網
(杉林文書)
尾札部村漁業組合
明治卅年七月十九日 臨時会諮問案決議
一 共同鮪建網ハ明年度ヨリ第二項ニ定メタル各共有者損益ヲ平等トシ創業ニ着手スルニ決ス
二 共有者ハ本籍寄留ヲ問ハス本年四月マテニ満三ヶ年当村ニ住居ヲ定メ公費ヲ分任(担)シタルモノニ限ル 但事務所ニ備置セル文例ニ傚ヒ共同惣代ニ加入証書ヲ差入ルベシ
三 胴アバ、役アバ、ヱビスアバハ杣夫ニ伐ラシメ村人夫ハ監査役ガ指定シタル地ニ搬出スヘシ
其他小アバハ各戸ニテ負担ス 明年度使用ノ漁船ハ他借ス 納屋ハ後駒共有海産干場ニ建築ス
四 船頭以下総テ給料ヲ以テ雇入ル漁夫ハ卅五名内外ト仮定ス
漁夫ハ抽籤ノ結果見日ヨリ始リ後駒ニ漸次ス
五 監査役七名ヲ公撰シ左ノ職責ヲ担当セシム
一、創業準備 二、守成方法 三、納屋取締 四、原料購入 五、荷物賣却 六、損益勘定
各監査役任期ハ満二ヶ年トス
六 前共同惣代人小原多次郎辞任ニ付後任者ヲ監査役ト同時ニ公選ス 投票ハ本月三十日限リ事務所ニ差出スベシ
角印(職印)
茅部郡
右之通リ決議候条此段及報告候也 尾札部村
用事務所
(3)川汲共同網 池田安太郎翁談(明治二七生)
川汲の共同場所も網たででいだ。
そのあたり魚は何程とれたもんだが。俺だ子供の頃は、川汲の川原さ行ぐとウダデ二間四方もあるよんた(ような)大きな大桶(こが)ばり(ばかり)、何本って並んであった。川のすぐこっちにあった。
その大桶(こが)に塩漬けした鮪を入れた。
その(川汲川)橋さ(に)立てば沖の網ガラー(すっかり・全体)と見えだ。
今の高校の実習場のところが村場所のところだ。
網の位置は〓徳田の建てたところで、今の沢中漁場の少し上(かみ)寄り、オガ(陸)場所とオギ(沖)網と二か統やっていた。
川汲の共同網の鮪は(陸に揚げると)川汲川の川尻にいれる。ここの川の水が冷(ひや)っこくていいから鮪をとれば川さ入れておいて、三枚(さんめ)おろしにして塩漬けし、コガに入れた。それでたりないで土に穴掘って入れておいて内地から帆前船(ほめせん)が来ると積ませた。三枚おろしにした骨に付いている肉をとってきたのは子供の頃覚えている。
四月の十何日ってば共同網が始まる。部落の家はみんな権利があるから入れた。
網(漁夫)に入るのは籤(くじ)でやる。一番籤は四〇人ならそれだけ集まる。二番籤は次の年に入る。籤に当たっても入いらねば他人(ほか)に譲ってやった。
俺入ってたときは〓坂本の親爺が納屋親方で、そのあと〓斎藤〓杉林も船頭やった。〓は沖の責任者だった。
その頃、川汲では部落で経営していたから、入札で他人に請負わせなかった。あとから木田漁業部に入札で請負わせるようになった。
旅の人が移住して来て部落の家数が多くなり、共同網の権利者が多くなった。
新しく入って来た人は頭のいい人ばかしきたから、人数がふえて昔からやってきた人たちが損をする、というので、〓杉林が株にすることを提案して部落総会で株にすることに決まった。だから、あとふえねからいいと思ったら、〓が株を買い占めてしまった。川汲中ほとんど〓の飯(めし)くいだったから、下がりがあるとみなとられてしまった。
農地改革まで川汲の土地もほとんど〓徳田のものだった。
儂(わし)らは〓の飯(めし)くいでないから関係がなかったから、〓から買いに来た。しかし、最後には〓のものになって戦後までやっていた。
ひと起こし鮪二百とったのが一番多かった。
鮪の胃袋(ちゆう)の中に木盃が入っていて、しばらく納屋に飾っておいた。
池田安太郎翁は、川汲共同網の生き証人として語る一言一言に、古き佳き時代を髣髴とさせる回顧談であった。