〔アメリカ鉱山技士来村〕

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文久元年(一八六一)
 幕府が招聘した米国(アメリカ)地質鉱山学士ウイリアム・ブレイクとラフアエル・パンペリーを蝦夷地の鉱山資源調査に派遣した。
 
文久二年(一八六一)四月
 ブレイクとパンペリーは、箱館奉行と打合せのうえ、川汲古武井・市渡・遊楽部・山越内利別川上流などを調査した。
 川汲が幕末以来の道内の鉱業の先達の中に名をとどめたのは、鉱山資源の有望さではなかった。六ヵ場所、ヲサツベ場所への川汲山道により、当時、広く郷土の地理が知られていたことが注目の大きな要因であったとしか思われない。その後の鉱業界の推移のなかでも、川汲金山の再興がはかられたこともあったが、鉱脈としては望み薄であったことから、早くから鉱業史に登場しただけであった。
 このときブレイク、パンペリーらが、利別川上流で水銀を用いて砂金を採取したことや、遊楽部では、火薬を使って岩石を破砕する採鉱技術は、日本の鉱業史のなかで嚆矢とされる画期的なことであったのである。
 
文久元辛酉(一八六一)年一〇月
 河汲山銀銅鉱山が見込み通りにはかどらなく、この先五年、一〇年先の見込も立たなかったので、奉行所は河汲山を暫時休山にした。河汲山の大工や仕事師等は、ユウラッフ鉛山へ差し回すことを同月二五日に評決している。(福島屋文書)。
 
文久二年(一八六二)
 幕府招聘の米国地質兼鉱山学士ブレーキ、ボンベリーの両人、学生、通詞を伴いエゾ地に渡来。
 川汲・市渡・古武井の諸鉱山を踏査。利別川上流で水銀を以て砂金を採取。
 遊楽部で火薬をもって岩石を破砕した。本邦鉱業所初の実験となる。
 
慶応二年(一八六六)
 古武井硫黄山の採鉱を始めた。恵山硫黄は収支償わず休業となった。
 
慶応三年(一八六七)
 岩内・幌別の硫黄山が採鉱を始め、物産所で買上げて江戸・大阪会所に回送した。
 茅沼炭山で英人イー・エッチ・ガールが、英国より蒸気機関車を輸入して二哩余の鉄道を敷設、鉱石の運搬のため運転を始めた。
 わが国鉄道の草分けとされている、明治五年九月一〇日の新橋・横浜間の鉄道開通に先立つこと五年前のことである。                               (北海道の金属鉱業 昭和二七)