大字熊泊字磯谷五五一番地(字名改正・臼尻七二一番地)磯谷川の上流に建設工事が始ま
る。資材・機器材はすべて船で運ばれてきて磯谷に陸上げされ、牧場の馬で駄送された
という。
13・ 6・ 1 函館水電株式会社により新設仮使用の認可をえて運転が開始された。
築設当時の落差は北海道最高だったという。爾志郡相沼内発電所が出来てその地位を
譲った。落差がある程鉄管は細くてよくなる。磯谷川・常路川の水量一・六七立方メー
トル、有効落差一九〇・六メートル。貯水量も期待されたが忽ち流砂に埋まった。小さ
い荒川はほとんどそうだという。そこで、常呂川より取水のために高さ二四・五メート
ル、堤長六四・五メートルのダムを築設して誘導した。磯谷川と同時に大舟(船)川の水
利権もとった。一応、予定地を決めた程だった。最大出力一、二〇〇KW(のち二四〇〇KW)
昭和 2・ 3・ 4 臼尻村・尾札部村へ電力供給を始めた。
4・ 6・22 亀田送電線二二、〇〇〇V、磯谷発電所・亀田変電所(中の橋)間二七・一六キロメート
ルが設けられ、函館市への送電ができた。
4・ 7・21 磯谷川第二発電所が磯谷川河口の(字名改正)臼尻村字双見一五一番地に運転を開始した。
第一発電所から遠方制御運転設備で千歳第二発電所に次ぐ施設で変圧器を設けず、第一
へ送電して昇圧する。
最大出力一、二三三KW、水利磯谷川・常呂川、水量一・六七立方メートル、有効落差九
七・九メートル。万畳敷をこえて亀田村への送電は案外近距離であり、磯谷川発電所は
函館へ送電開始の当時、函館市供給量の約四割をまかなっていたので主要な役割を果た
していたといえる。当時、電気料金はメーター制でなく定額料金であった。村人は灯(あ
か)り料といった。一戸一灯の裸電球が月八〇銭であった。始めは希望するが二、三か月
で休灯するので営業にならなかった、と関係者は回想する。
6・ 2・28 第一発電所、予備水車発電機を増設。
6・ 8・ 6 第二発電所、認可出力変更。
12・ 3 第二発電所、臼尻配電線第一発電所より遠方制御方式に変更。
27・10 第二発電所、自動化改造による配電盤を全面移設。
31・ 4・ 1 第二発電所勤務員辞令「第一発電所」付を「第二発電所勤務」に独立す。
32・ 7・ 6 第一発電所、配電盤開閉装置の改良工事。
33・11・17 第二発電所、簡易自動化に変更により終隔勤務をB型勤務態様に変更。
35・ 2・21 第一発電所、制御方式変更。一人制御方式とす。
36・ 3 第一発電所、一・二号水車及び発電機改造。
39・ 2 第一発電所、第一・第二に静止型励硝機設置、MIG撤去。
40・ 2・26 第二発電所、無人化工事実施(発電機盤取替)
無人化までの発電所職員。
第一 第二 計(家族数)
所長 一 一 (三)
職員 二 四 六(一六)
〃(独身) 六 六(六)
九名 四名 一三名(二五名)
48・11 遠方運転開始。
54・ 7・ 8 字川汲一五四八番地に事務所・配電塔・社宅を新築、臼尻・尾札部電業所を統合して南
茅部営業所開設(所長金田光照就任)。
7・10 川汲配電塔より送電開始。(南茅部町内の約六割へ送電)。
磯谷川第一発電所
磯谷川第二発電所
昭和四二年夏、昨今、漁家の間に昆布乾燥のための乾燥機が普及し、漁協でも作業能率の向上のためこれを奨励した。
この乾燥機は重油や灯油を燃料としたが、そのスタータや作動には電力が使用されていたので、雨天のみならず、漁家の作業時間がひとときに集中して一斉に電力が消費されるため、昭和四二年の夏は電気がパンク(過負荷・過電流)して漁家を慌てさせた。
送電が杜絶すると乾燥機が動かなくなり、生コンブをかかえて雨天や夜中に漁家はとほうにくれた。苦情は町役場をとおして北電へ殺到した。
このとき、郷土出身で電力業界誌の出版をしている東京在住の電力新報社社長酒井節雄(大正一二生)は、故郷の困惑を知って北海道電力株式会社に事情を告げてその打開の労をとった。
昭和四二年九月五日、北電函館支店長より改良工事の終了を酒井社長に宛て回答した。
このときの配電線改良工事の内容は次のとおりであった。
工事概要
低圧線径種変更(延長) 一三、〇〇〇m、4m/m~5m/m又は三八口、六〇口に変更
低圧線延長 一四〇m
変圧器増設 五台 五〇KVA
変圧器容変 一一台 一六〇KVA
工事バンク数(既設) 二四「バンク」
工事費概算額 ¥三、三〇〇、〇〇〇円
工事効果 本工事の完了後は、配電線各「バンク」ごとの末端電圧は九九V~一〇五V間
となり、現状は勿論、今後、相当期間の自然増にも対応し得ることとなりま
す。
なお、系統電圧対策としては磯谷川第二P・S自動電圧調整器を設置済み
であります。