衛生環境や食生活のうえでの栄養が、あまりよくなかったこともある。
大正七年一〇月、悪性流行感冒が蔓延した。スペイン風邪といわれて世界的に流行して恐れられ、翌年二月まで国内の罹患死亡者一五万人ともいわれた。昭和三年には腸チフスやジフテリアが流行して、村内でも多くの死亡者がでた。このため臼尻村・尾札部村ともに隔離病舎の建設がすすめられた。
臼尻村は臼尻と板木境付近に、尾札部村は島歌から木直への山越の山林に病舎を建築して設置した。
大正年間、学校保健がとりあげられ、学校医が委嘱され児童の内科検診が始まる。児童の検診によると、トラホーム(眼疾)、皮膚病が多く、検便の結果は、寄生虫保有者が七、八%にも達することがあった。トラホームや皮膚病は、家庭における衛生習慣が良くなかったので、家族感染の傾向が強かった。
(表)法定伝染病 尾札部村 ( )内は死亡者数
戦前戦後を通じて多かった伝染病として結核がある。医療や健康保健が発達していなかった頃、結核患者は家庭で長期の療養生活をしたので家族感染の原因となった。
昭和二一年、尾札部地区に天然痘が発生した。この頃、発疹チフスが流行して恐れられ、DDTの消毒、散布が一〇年ほどおこなわれた。
昭和三六年、木直地区に赤痢が発生し、罹患者数七四名、保菌者数六四名であった。
赤痢などの伝染病の発生を予防するには、地域の環境衛生を浄化することとして、木直部落会では「蚊とハエのいない」北海道建設運動共励地区の指定をうけ、木直地区挙げて環境衛生づくりに努めた。
昭和四〇年、優良地区として森保健所(昭和四〇)・渡島支庁長(昭和四〇・三)・北海道知事(昭和四〇・八)表彰をうけた。
昭和四〇年五月二八日、川汲(精進川)地区に赤痢が発生した。同年三月、磨光小学校でA型給食を実施したばかりだったので、給食による罹患が疑われたが、感染源は井戸水によるのではないかといわれた。
次つぎと発見される罹患者は九〇名にも及び、道からの指導もうけた。小学校では、予定していた運動会も修学旅行も延期した。
昭和四一年、南茅部町・鹿部村組合立隔離病舎が、安浦の町立国保病院隣接の台地に建設された。建面積二二〇平方メートル、事業費は六三二万円である。
(表)伝染病状況 ( )内数字は結核を含む (「町勢要覧」昭和四五・四八)
昭和四二年二月一日、町立国保病院隣接地に町立母子センターが開設された。
昭和四九年三月、尾札部会館(磨光小学校校舎)のところに保健福祉館が建設された。佐藤町長は町民の保健センターとして、保健婦らによる町民の保健指導に当たる構想を描いた。