〔勧請之書〕

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 郷土に神社を勧請したとき、授けられた祖神の神社からの勧請之書(安鎮之書)が保存されているのは四社ある。
 尾札部稲荷神社は、文化六年(一八〇九)、城州紀伊郡(和歌山県)神職松本筑後守宿彌為房よりの「稲荷大明神御安鎮之事」と記されている。
 また、熊稲荷神社に伝わる文化九年(一八一二)稲荷大明神「神号吹挙」は、神祇官領長土家と認められていて、書付を納めた木箱を包んだ布に陸中国東閉伊郡浦鍬ヶ寄村小角原深松と書かれている。
 同じく木直稲荷神社の天保一一年(一八四〇)「神号所申調」には、熊の書付と同様、神祇管領長上家と記されている。
 また、熊小田濱(歌浜)村は安政四年(一八五七)で、尾札部稲荷神社の「安鎮之事」と同じ書式で認められ、神職名は包紙の上に「羽倉摂津守」とあり、証書には宿弥信純と認められる。
 奇しくも尾札部と歌浜の二社は文化六年(一八〇九)と安政四年(一八五七)、約五〇年を距てて書式同じく「安鎮之事」としてあり、木直と熊の二社は天保と安政年間であり、ともに「神号」という文言が用いられている。
 
  「稲荷社 安鎮之證書  本宮正官 松本筑後守
正一位稲荷大明神安鎮之事
  右雖為本官之奥秘依
  各別之願望略式修封
  之  厳〓令授與焉
  祭祀慎之莫怠也
   城州紀伊郡
        本宮祠官
文化六年八月豊日 正四〓〓〓〓〓為房 
 東蝦夷地ヲサツヘ村
        鎮守
     松前熊り村
       名主
         与右衛門
正一位稲荷大明神 神號
右依願亀田藤山和泉
令吹挙所申調如件
 神祇官領長上家
文化九申十二月  公文所
 
 松前 亀田
  八幡宮
大神
       藤山長門
       木直し村中
右依願
正一位稲荷大明神 神号
所申調 如件
  神祇管領  長上家
天保十一子年  公文所 
     二月
 
   「稲荷社 安鎮之證書」  本宮正官 羽倉摂津守」
正一位小田濱稲荷大明神安鎮之事
  右雖為本官之奥秘依
  各別之願望大略祀式修封
  之    厳〓令授與焉
  祭祀慎之莫怠也
 日本惣本宮
      正官
安政四巳年後五月豊日 正四〓〓〓〓〓信純 
  奥州箱館
     小田濱村中
   セ話方
     市右衛門 殿

尾札部稲荷神社「安鎮之事」 文化6年


稲荷神社「神号吹挙之書付」 文化9年


木直稲荷神社「神号之書付」 天保11年

 尾札部稲荷神社は延宝七年(一六七九)の創建に対し文化六年(一八〇九)の安鎮の書付である。
 また、木直は明和五年(一七六八)の創建に対し、天保一一年(一八四〇)の「神号所申調」の書付、熊は安永二年(一七七三)の勧請、寛政四年(一七九二)の創建に対して文化九年(一八一二)の「神号吹挙」である。
 ひとり歌浜稲荷神社のみ安政四年(一八五七)「安鎮之證書」をもって、安政五年(一八五八)創建と一致している。
 これらの書は、神社の起源沿革を知るための創始勧請の文書ではなく、いずれも遙か後の世に、また、求めてほかの神社より授けられた書付である。
 年代の相違もあり、古く遠い昔のことでもあり、亀田八幡宮社記にあるように先々事不(さきざきのことあい)相知(しらず)」ということであろう。