ポン木直大漁神楽

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大正一四年、ポン木直の〓折田辰三郎・〓西谷豊蔵・〓伊予部政吉・一山中巳之助らが発起人となり、ポン木直の青年たちで神楽を始めることになった。
 当時、すでに本村の木直では大正神楽が活躍していたので、ポン木直でも、青年の健全な活動をすすめる目的で神楽を始めた。
 一山野内の兄が南部にいって、芸名市公という師匠を招いてきた。師匠市公は、のち戦争中に大正神楽の指導に来た馬場正二郎という人の師匠筋に当たり、同系の先輩格であったという。(本間善次談)
 最初に神楽を習った人たちは
〓 折田辰三郎  太鼓
〓 松本春雄   笛
〓 佐藤     笛
〓 西谷角太郎  獅子舞 鳥こ舞
   (げん)太郎
〓 岩間喜一郎
  本間常雄(つねお)  傘舞 三本こうじ
〓 工藤作蔵   弁慶
  伊予部国太郎 牛若
〓 佐々木つねお 鳥こ舞
  今野秀お   剣舞
であった。大宮清勝は会計を受け持った。
 ポン木直に伝承された南部神楽は三拍子で、五拍子の大正神楽とはその始めは異なり、三拍子の熊若神楽(大船)と同じ系列にはいるといわれる。
 種目は     三番舞     五本こうじ
  獅子舞    剣舞      牛若・弁慶
  鳥こ舞    三本こうじ   傘舞
 舞はひとり二種目以上の芸を身につけ、囃し方も交替でやる。稽古は、〓伊予部家の下の方の雑倉の二階でやった。二年目は〓でやった。
 神楽の名は木直が大正神楽といっていたので、ポン木直は大漁神楽と命名した。
 師匠が舞を教えながら、獅子も面も手彫りした。一山中からもらった桐の木を、師匠は〓折田家の雑倉でひびわれしないようにと、湯にとおしてお面を彫った。
 翁の面と三番舞の面は、尾札部の神主に頼んで買ってもらった。ポン木直の村中から寄付をもらい、幕は折田家から寄贈された。
 初公開は〓伊予部家が会場で、みな真剣に神楽の芸を披露した。村中の人が見物にきて大盛況、大成功であった。
 師匠もついてくれて木直でも公演し、隣の見日、尾札部へもでかけた。
 公演は旧正月にしたので、正月が近づくと青年達は集まって稽古に励んだ。
 はじめは地元の青年団と交渉して出かけたが、のちには正式に村役場と警察に届け出をしてビラ(ポスター)もつくり、木戸も五銭とか一〇銭で、税金を納めて興業として堂々と公演した。
 昭和八年には満州の兵隊さんに慰問献金をするというので、下海岸の村々を巡業した。古武井女那川尻岸内・日浦・原木と公演し、戸井では二晩興業したが、余り長いので家から電報で呼び戻されて、ポン木直に帰ってきたという。
 〓本間吉松の剣舞、三本こうじは至芸といわれた。
 見日から板木あたりまでは夜遅くなっても家に帰ったが、臼尻から遠くへいくときは一した。よその村から招かれて砂原村・掛澗まで巡業するほど、ポン木直の南部神楽は有名になった。
 戦争中も望まれて公演し、浄財を陸海軍に献金して感謝状をうけた。神楽の仲間も多く兵隊にいったが、戦後、復員するとまた神楽を復活した。

木直大漁神楽部「感謝状」 昭和18年

 昭和三〇年ごろから大漁神楽は公開されていない。大漁神楽の本間善次は、昭和四〇年代、大正神楽の復活のとき、今川幸四郎の懇請をうけて大正神楽の保存会に参加、剣舞などを担当して活躍している。
  二代目の会員
     中村ゆう太郎 三本剣(こうじ)
     対馬繁夫   獅子舞
   〓 本間善次   二本剣・小獅子 三本こうじ 獅子舞 道化舞
   〓 伊予部石雄  三番舞
     吉田由一   小獅子
戦時中の会員
   工藤俊夫       〓 本間善三郎
   山口仙平 仙太郎   〓 岩間きろく
   秋本豊勝       〓 吉田辰雄   経理担当
   太田じょうじ
     〈資料提供・協力 秋本春雄 西谷角太郎 本間善次 吉田辰雄〉