東広島市立図書館/東広島市デジタルアーカイブ
②「志和」の名前の由来はなんだろう?
のん太が郷土史を研究する人にインタビューしてきたようです。
志和の地名には、歴史的な由来があります。約1000年前の志和は、「志芳庄」(しわのしょう)と呼ばれていました。「志和」の「和」は、もともと「芳」という字で、その後に変わったのです。
「庄」という字は、荘園であったことをしめします。荘園とは奈良時代から鎌倉(かまくら)時代のころの農地や農園のことを表す歴史的な用語です。
オジサンの画像
荘園ってあまりきいたことないな。荘園ってどんなところだったのかな?
のんたの画像
荘園とは具体的にどのようなものだったのでしょうか?
画像 【資料】中世の荘園の例(紀伊国峠田荘(かせだのしょう)絵図のトレース図)
(出典:『歴史教育の中の絵画資料』より引用)
荘園は農園のことだよ。上の資料のように、村の中はいくつかの荘園(庄)に分かれていたんだ。それぞれの荘園にはオーナーさんがいたけど、オーナーさんの中には、その土地に住んでいないこともあったよ。
たとえば、志和西のあたりの荘園の最初のオーナーさんは天野景経(あまのかげたか)という人だよ。その人は、今の静岡県あたりに住んでいたんだ。
また、オーナーさんは時代とともに変化していったんだよ。時には、土地の支配をめぐって戦場にもなっていたんだ。
のんたの画像
当時の戦(いくさ)について、もっと調べてみましょう。
画像 【資料】米山城 画像 【資料】米山城の看板
志和にもお城があったの?米山城は、毛利元就(もうりもとなり)に関する遺跡(いせき)なんだね。どうして山の上にお城をつくったのだろう?
のんたの画像 画像 【資料】生城山 画像 【資料】生城山からの景色
(出典:城郭放浪記より提供)
荘園があったころは戦が多かったんだ。山の上は戦うのに、都合がよいことが多かったよ。例えば、山頂は景色がいいから相手がどこから攻めてくるか発見しやすいね。石垣などをつくらなくても土を削るだけで平らな土地が作れるから、城を早く作ることもできたんだ。このような城を「山城(やまじろ)」と言うよ。
のんたの画像 画像 【資料】広島城
広島城のように川のほとりの平らな土地につくられた城を「平城(ひらじろ)」というよ。平城をつくるのは、山からたくさんの土や石を運ばないといけなくて大変な作業なんだ。このような城は、戦うためというより、お殿(との)様の力を表したり、人々の管理・支配のためにあるんだね。
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「志和」には、約1000年前の地名が残っているんだね。1000年前は荘園という地いきの中で、人々がまとまって生活したり、この土地をめぐって戦があった時代だったんだな。
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