伊治公呰麻呂の乱

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宝亀十一年(七八〇)という年は、三十八年戦争の一つの画期となった。三月、按察使紀広純が、配下の上治(かみはり)郡大領伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の反乱によって殺害されるという大事件が起こったのである(史料一五七)。
 紀広純は、三十八年戦争勃発時の鎮守副将軍、のちに陸奥介、陸奥守と昇進し、宝亀八年以来按察使の任にあり、またこの前年には参議(さんぎ)となっていて、中央政府の閣僚にその名を連ねていた重要人物。その政府高官が現地で部下に殺害されたのであるからことは重大である。
 このとき広純は、問題の胆沢攻撃の拠点として覚鱉(かくべつ)城(所在地不明)の造営を計画中であり(史料一五六)、そのために伊治城(写真46)に駐屯していた。それに対して栗原(くりはら)地方の蝦夷の首長呰麻呂は、俘囚(ふしゅう)の軍を率いて反乱し、伊治城を攻めて広純と牡鹿郡大領道嶋大楯(みちしまのおおたて)とを殺し、さらにそのままなんと多賀城にまで兵を延ばして、そこに火を放ち、焼亡させてしまったのである。藤原朝獦(猟)(あさかり)によって整備された第二段階の多賀城はこうして消滅した。

写真46 伊治城跡 呰麻呂の本拠地もこのあたりであったか。(宮城県築館町)

 呰麻呂の反乱の理由について『続日本紀』は、広純に対してはもともと何か含むところがあり、また大楯からは常日ごろ「夷俘」と馬鹿にされていたことを挙げているが(史料一五七)、もちろんそれだけのことではなく、おそらく彼の苗字の地であった「伊治」に城を築かれて、そこにおける権益を大幅に奪われ、また蝦夷出身者としてことごとく差別されていたことなどがあるのであろう。しかしこの呰麻呂がその後どうなったのか、正史『続日本紀』は一言も語らず、定かではない。
 いずれにしろこの反乱によって、北方地域は大混乱に陥った。中央政府は早速征討軍を組織し、坂東の兵力を結集した。征東大使は中納言藤原継縄(つぐただ)、副使は大伴益立(おおとものますたて)・紀古佐美(きのこさみ)である(史料一五九)。そして翌天応(てんおう)元年(七八一)五月にかけて、数万の軍士と数万斛(こく)の糒(ほしいい)などが投入されたが、多賀城だけは回復したものの、実際には全般にはかばかしい戦果は得られなかった。政府は将軍らに対し譴責(けんせき)や督促、首のすげ替えなどをしたが、結局はうやむやのうちに終わってしまう。四〇〇〇人の蝦夷と戦ってわずか七十余人の首を挙げただけで、軍士を解き都へ凱旋したいと申し出てくる有様であった(史料一七七)。このときの征討はなかなかはかどらなかったのである。