さて築城も一段落したのか、田村麻呂は阿弖流為らを引き連れてこの年七月に上京する(史料二六一)。そこで田村麻呂は、胆沢地方の安定のために、彼らを許し、奥地の蝦夷の説得に努めたいと願うのであるが、都の公卿たちは「野性獣心、反覆して定まることがない」とし、さらにその放免は「虎を養って患いを遺すようなものだ」と反論し、ついに河内国杜山(もりやま)(大阪府枚方(ひらかた)市付近か)で斬殺してしまった(史料二六三)。
なぜ阿弖流為は簡単に投降したのか、阿弖流為と田村麻呂とのあいだにどんな約束があったのか、なぜ田村麻呂は阿弖流為を助けようとしたのか、さまざまな憶測が飛び交い、それらがまた田村麻呂伝説を形成していくことになる。
しかしなおも征夷事業は継続された。翌、延暦二十二年(八〇三)には志波(しわ)城の造営が始まる(史料二六四)。志波の地は、南の胆沢地方と北の閉伊(青森県東南部・岩手県東部の沿海部)・爾薩体(にさったい)(岩手県北端の二戸市付近)地方とを結ぶ要衝である。また雫石(しずくいし)川沿いに出羽方面ともつながる地でもある。
翌二十三年には田村麻呂がまたも征夷大将軍に任ぜられる(史料二六七)。しかしこの征夷は、翌年、病に伏せた桓武天皇の病床で繰り広げられた、菅野真道(すがののまみち)と藤原緒嗣(おつぐ)との「天下徳政相論」の結果、「軍事と造作」をやめるべきだという緒嗣の意見が通り、中止される。大同元年(八〇六)三月には桓武天皇も七〇歳で世を去った。
ただ今風にいえば歴代閣僚名簿にあたる『公卿補任(くぎょうぶにん)』という書物では、弘仁元年(八一〇)まで、田村麻呂を征夷大将軍としている。彼は当時からすでに征夷の英雄となる要素をもっていた。彼の最晩年のエピソードとしてよく知られているものに、次のようなものがある。
弘仁二年(八一一)正月十七日、嵯峨天皇は豊楽院(ぶらくいん)に出御して弓矢の射競べを御覧になった。その後、天皇は諸親王や臣下に命じて順次、弓を射させた。その場には、天皇の弟の弱冠一二歳の葛井(ふじい)親王(桓武天皇と田村麻呂の娘春子との間の子)も同席していたが、天皇がたわむれにその弟にも弓を射てみたらどうかと勧めたところ、二回射て二回とも命中させるという見事な腕前を披露した。同席していた親王の外祖父田村麻呂は、これをみて我を忘れて座を離れ、親王を抱いて舞い、以下のように賞讃した。
「私はかつて数十万の兵を率いて東夷を征討することがあったが、天威を頼って向かうところ敵なしであった。自らはかるに、勇略・兵術ともまだ究めていないところが多いが、今、親王は子どもなのに武芸がかく立派である。とても私の及ぶところではない。」
(『日本文徳天皇実録』嘉祥(かしょう)三年〈八五〇〉四月癸酉条)
「向かうところ敵なし」というあたり、征夷事業についての強い自負心がみてとれる。田村麻呂はこの四ヵ月後に没している(写真50)。時に大納言正三位兼右近衛大将兵部卿(だいなごんしょうさんみけんうこのえのだいしょうひょうぶきょう)という、坂上氏としては例のない高官であった。
写真50 坂上田村麻呂墓地(京都市山科区)