奥州合戦勝利の直後から、頼朝は積極的に東北地方の治政に着手した。文治五年(一一八九)九月十四日、奥羽両国の省帳(しょうちょう)・田文(たぶみ)(土地台帳)以下の公文書を捜索させたが、それらは泰衡が平泉館に火を掛けたときにすべて燃えてしまい、残存していなかった。そこで古老の奥州住人、清原実俊(さねとし)・実昌(さねまさ)兄弟を召し出して、新たに絵図を描かせて、土地台帳を作成し直した。その上で、十九日、頼朝は平泉への帰途についた。厨川柵にとどまること七日余の長きにわたったのは、先にも触れたように、この地が源氏ゆかりの場所であって、自らの全国制覇を、従軍した御家人たちに示す恰好(かっこう)の舞台であったからである。
二十日には、「伊(胆)沢郡鎮守府」で吉書始(きっしょはじめ)の儀式が執り行われた。いわば東北地方に対する占領政策の開始を記念する行事である。ついで奥州合戦に戦功のあった御家人らに論功行賞がなされた。千葉常胤・畠山重忠をはじめとして、数多くの御家人らに東北地方の所領が充(あ)てがわれていった。また同時に、阿津賀志山の合戦において鳥取越えの奇襲に加わった身分の低い武士たちにも恩賞が与えられた。
二十二日になると、頼朝は奥羽経営のために、葛西清重に対して「陸奥国御家人のこと」を奉行するように命じた。陸奥国御家人等の頼朝への申し分は、すべてこの清重を通じて奏達するように、とまで言い渡している(『吾妻鏡』)。さらに二十四日には、「平泉郡内検非違使所」を管領して郡内の濫行を停止し、罪科を糺弾(きゅうだん)せよとも命じている。「平泉郡」という郡は存在しないので、その意味はこれまで奥六郡の総称であるとか、あるいは都市平泉の膝下を形成する岩井・胆沢・江刺といった諸郡の総称であるなどといわれている。
いずれにしろ清重は、平泉藤原氏に代わる頼朝の現地代官として、陸奥国内御家人の統制と平泉郡内の治安維持といった平泉藤原氏の職権を継承する、諸国の守護に匹敵する重職に任じられた。奥州一円の軍事指揮官ともいうべき立場である。『吾妻鏡』では、のちにこの地位を「奥州惣奉行」と呼んでいる。
清重は、頼朝の挙兵直後から、麾下(きか)の有力武将として数々の戦功を挙げてきた。阿津賀志山の合戦においても、雌雄を決した八月十日早朝の衝突で、清重は三浦義村・工藤行光らとともに先陣の名乗りを上げたうちの一人である。清重は「今度の勲功、殊に抜群」であるとの理由で、伊(胆)沢・磐(岩)井・牡鹿・江刺・気仙の五郡と興田(おきた)(大東町)・黄海(きのみ)(藤沢町)の二保という、広大な所領を拝領する。これはのちに「葛西本所五郡二保」と呼ばれた。
なかでも伊沢郡は鎮守府の故地であり、奥六郡の筆頭。磐井郡は、平泉の在所。牡鹿郡の牡鹿湊は、太平洋ルートの物資を北上川舟運を通じて平泉に運ぶ要衝で、平泉での生活を維持する生命線ともいうべき重要な場所である。平泉藤原氏を継ぐ者として、まさに政治・経済の枢要の地を獲得したといえよう。