たとえば地頭代職安堵は地頭代自身の代替りのときはもちろんのこと、得宗の代替りに際しても行われたが、当地の場合、得宗北条泰時から経時への代替りに際しては、その新得宗経時によってではなく、弟時頼によって安堵がなされているのである(史料五七一~五七三・写真110)。
写真110 北条時頼袖判盛阿奉書
『吾妻鏡』には、泰時の最晩年のこととして、若宮大路下馬橋付近で起きた三浦一族と小山一党との喧嘩に際して、中立を守った時頼が泰時にほめられ、三浦方についた経時がしかられたという逸話が載せられている。結局、執権は経時になったが、あるいは陸奥の得宗領については、嫡子経時ではなく時頼に与えられたのかもしれない。西国では、経時による所領安堵の明証が多々あるが、得宗領の分割については、他にも全国各地にその痕跡が残されている。