中世の境界認識

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この時代の人々が、境界をどのように認識していたかについては、あくまで都人のものではあるが、かなりの史料が残されている。それらを書かれた時代順に並べると、次のようになる。
 
①『新猿楽記』(一一世紀前半成立、史料一一一一)
八郎真人者、商人主領也。重利不妻子、念身不他人。持一成万、摶壌成金、以言誑他心、謀以抜人目一物、東臻于浮囚之地、西渡於貴賀之島。交易之物、売買之種、不称数

②『保元物語』中(一三世紀前半成立、史料一一一二)
西は鬼海・高麗、雲のなみ烟のなみをしのぎても、左府有と聞えなば、舟に棹をもさしてまし。東は阿古流や津軽俘囚が千島なり共、左府住としりなば、駒に鞭をも打ぬべし。只生を隔るならひこそかなしけれや。

③慈光寺本『承久記』上(鎌倉前期成立、史料一一一三)
頼朝卿、度々都ニ上リ、武芸ノ徳ヲ施シ勲功無比シテ、位正二位ニ進ミ、右近衛ノ大将ヲ経タリ。西ニハ九国二島、東ニハアクロツカル夷ガ島マデ打靡シテ、威勢一天下ニ蒙ラシメ、栄耀四海ノ内ニ施シ玉フ。

④日蓮聖人遺文
『薬王品得意鈔』(一二六五年、史料一一一五)
例セバ世間の小船等カ自筑紫至坂東、鎌倉ヨリ(夷)ノ島ナムトヘツケトモ唐土ヘ不至。
『乙御前御消息』(一二七五年、史料一一一六)
大乗と申は大船也。人も十二十人も乗る上大なる物をもつみ、鎌倉よりつくし、みちの国へもいたる。

⑤入来院文書
「渋谷定仏(重経)置文案」(一二七七年)
さやうならハ、ありのまゝにかミヘ申て、ゆほをのしま、えそかしまへなかすへし。
「渋谷定仏後家尼妙蓮等重訴状」(一二八〇年頃、史料一一一七)
自筆状(渋谷定仏)者、不許ヲ許利多利土申左波、上江申天、湯(硫)黄島・夷島江可流云々。

⑥『八幡愚童記』下(鎌倉末成立か、史料一一一八)
若公家一円ノ率土ナラマシカバ、辺境ノ凶徒強力ノ勇士乱逆無止事、合戦隙ナカルベシ。或ハ王位ヲ恣シ、或東西ヲ塞ギ、将門・信頼ガ如クノ者不絶、趙高・王莽之類多ルベシ。然ニ当世ハ、素都ノ浜ヨリ初テ鬼界島ニ至マデ、武威ニ靡ケル事ハ、只風ノ草ヲ靡如シ。若違反ノ輩在レバ不廻時尅誅罰ス。

⑦妙本寺本『曾我物語』(鎌倉末~南北朝期成立)
巻三(史料一一一九)
今夜君御為〓蒙御示現候。君(中略)左御足踐奥州外浜、右御足踐西国鬼界島、(中略)懐島平権守景義進出申、(中略)実〓覚候。(中略)以左御足東国外浜見進候、東无浅(残)所秀衡館可御知行御夢想。以右御足鬼界島見進候、奉君平家落都、付四国西国終亡其一族、西无残可御進退御示現。
巻五(史料一一二〇)
当時世、東安久留・津軽・外浜、西壱岐・対馬、南土佐波迏、北佐渡北山、此等間逃-越何処何島、終被尋出、随罪軽重皆有御誡共
巻九(史料一一二一)
南限熊野御山、北限佐渡島東限褐・津軽・蛮〓島、西限 鬼界・高麗・硫黄島、不 懸 鎌倉殿御気処耶

⑧『融通念仏縁起』至徳本奥書(史料一一二二)
勧進沙門良鎮云。此絵百余本勧侍志は、大願ひとりならさる間、日本国えす(蝦夷)・いはうか(硫黄)島まても、其州の大小により、聖の機根に随て、一国に一本二本或は多本、此絵をつかはして、家をわかす人をもらさす勧申さむとなり。

⑨『義経記』巻五(室町期成立、史料一一二三)
君の御供とだに思ひ参らせ候はば、西は西海の博多の津、北は北山、佐渡の島、東は蝦夷の千島までも御伴申さんずるぞ。

⑩『ひめゆり』上(室町期成立、史料一一二四)
此女はう、さるいはれ有て、ゑそかしまへ、わたりし由をきゝて、ゑそか島へわたり、此女はうにたつねあひて、都へかへり給ひけるとこそ承れ。かやうにめにみす、をとにもきかぬ人を、うはの空に、月日をゝくり、心行ゑをしるへにて、きかい・かうらい・ゑそか島まて、たつねわたりてたにも、あひ給ふに、心つよく思召候へと、なくさめ参らせけれは、少将すこしたのもしくておはしける。

⑪今堀日吉神社文書
「伝後白河天皇宣旨案」(戦国期の偽作、史料一一二五)
安文 在御手形
宣下 近江国保内〓(商売)人等
三千疋馬事
右〓人等、東日下、南熊野之道、西鎮西、北佐土島、於 其中、可 任 心条、依 叡慮、執達如 件、
保元二年十一月十一日

 
 これらの史料を通じて、東の境界としては、アクロ(阿古流・アクル・安久留)・津軽・外浜・夷島・千島といった地名が挙げられていることがわかる。
 そのうちアクロは実在の地名ではなく、伝承としての辺境地名であろう。阿弖流為(あてるい)の異称とされる「悪路王」、あるいは『陸奥話記』に見える、前九年合戦の一場面として著名な「阿久利川」が想起される(延慶本『平家物語』、史料一一二七・一一二八)。
 またすでに触れたように、当時の「津軽」の指す範囲については、厳密にいうと、現在の津軽地方のうち、半島南部に限定されるものと思われる。外浜は、周知のように津軽半島の陸奥湾岸部を指す。平泉政権時代に切り拓かれたと想定される奥大道の終着地でもある。夷島は北海道、また千島は現在の千島列島に限定されるものではなく、夷島からさらに遠方に連なると想像されていた島々のことらしい。院政期の和歌(史料五一六)にもしばしば詠み込まれている。