境界の地外浜

280 ~ 281 / 553ページ
先に掲げた中世の諸史料にあったように、日本国の東の境界については、津軽・外浜から夷島にかけてのあたりと認識されていた。
 しかし鎌倉時代に現実に郡郷制的秩序が施行された地域は、津軽の外にある外浜までであって、夷島にまでそれが及んだわけではない。諸史料のあいだに境界認識をめぐって微妙なゆれがあるのは、外浜から夷島にかけての具体的地理認識があいまいだったからであろう。
 すでに触れたように、津軽三郡も外浜・西浜も、いずれも北条得宗領であったが、津軽半島の海岸部が、郡ではなく「浜」という単位で掌握されていたことは興味深い。とくに外浜は、鎌倉時代になってもなお怪異の出現する場所であったと同時に、怪異を追放する場所でもあった(史料五四四・五四五・五七四・五七五)。
 こうした境界の地が、なぜ和語で外浜と呼ばれたのであろうか。これについては古くから、『詩経』小雅(北山)の「溥(普)天之下、莫王土、率土之浜、莫王臣」の「率土之浜」から起こったもので、王土の尽きる果てを意味するという説が広く知られている(写真124)。

写真124 『詩経古註標註』
目録を見る 精細画像で見る

 『詩経』についての諸注釈書によれば、「浜」には「崖」、すなわち果ての意味があるという。すでに触れたように、鎌倉時代の領域単位としての「浜」も北奥の地に特有のものであったから、「率土」の周辺という意味で起こった名なのであろう。津軽半島の日本海側は、西浜という呼称であるが、外と西という奇妙な対句も、こうした語源によって生じたものと思われる。