『藤崎系図』(史料一一五一)は、津軽から常陸に移住した藤崎氏(白鳥氏)に伝来したもので、安藤氏関係の系図としては、「奥州下国殿之代々之名法日記」(史料七八五)のようなやや特殊なものを除けば、現存最古とされるものである。その根拠は、奥書に、永正三年(一五〇六)八月に藤崎右京佐殿の求めに応じたものであるという記述がみえることによっている。
もっとも、秋田実季によって万治元年(一六五八)に完成された『秋田家系図』(史料一一五三)は、冒頭から堯恒までの部分が『藤崎系図』に酷似しており、また『藤崎系図』では「不分明」とされている部分が、『秋田家系図』ではことごとく詳細に記述されていることから、じつは『藤崎系図』は『秋田家系図』を転写したもので、系図各所の欠損は、その古さを印象づけるために意図的に設けられたのではないかとする説もある。
しかし『秋田家系図』は実季苦心の作にして秘蔵のものとされていたにもかかわらず、それを一介の常陸国住人藤崎氏が剽窃(ひょうせつ)できるかという問題があり、また『藤崎系図』にしろ『秋田家系図』にしろ、その祖型や原資料は、全国各地の安藤氏ゆかりの地に散在していたわけで、『秋田家系図』の作者が『藤崎系図』を見た、あるいは逆に『藤崎系図』の作者が『秋田家系図』を見た、とは限らず、それぞれ共通の所伝を別なところで見ていてもかまわないのである。結果としてでき上がったものが似ているということは十分あり得ることであろう。
さらに、『藤崎系図』と『秋田家系図』では、その冒頭に気になる相違があるのである。いずれも孝元天皇から系譜が始まっているが、これは系図一般がそうであるように自家の家系の箔づけのためであって、後世の付会(ふかい)である。ここで孝元天皇以下が持ち出された理由は、大毘古命(おおひこのみこと)や建沼河別命(たけぬなかわかけのみこと)といった、記紀に見える大和政権時代の東方蝦夷征伐ゆかりの人物と結びつけるためである。
しかし『藤崎系図』では「孝元天皇」から「安東」まで線引きがなされているのに対し、『秋田家系図』では線引きは「建沼河別命」で終っているのである。その意識の違い、ないし意味づけについてはさまざまな解釈が可能であるが、それはさておいて、この事実も、『藤崎系図』と『秋田家系図』とが、少なくとも典拠を別にしている箇所があることを示唆していると考えられるであろう。この場合、むしろ『藤崎系図』の方が古態をとどめ、『秋田家系図』の方が整理されているともいえる。
さてこの『藤崎系図』では、神武天皇東征の時に滅ぼされた長髓彦の兄安日を、事実上その系譜の起点とし、奥州安倍氏をその末裔に位置づけ、安倍貞任が前九年合戦で敗死した後、遺児高星(ここでは次男とされるが、『陸奥話記』などにはみえない人物である)が乳母に抱かれて津軽藤崎に逃れ、藤崎城主となり、さらにその子堯恒が藤崎の領守(主)として跡を継ぎ、安東太郎、のちに藤崎太郎を号したという。ここに初めて安東姓がみえ、高星が津軽安藤氏の祖であるという説の根拠となっている。
また堯恒の子の高任の時(近衛院の御宇という。一二世紀中ごろ)に、津軽より多数の兵を率いて常陸国へ移住し、以後は常陸の白鳥氏の系図となっていく。