文永の蝦夷の乱

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アイヌ世界の争乱の淵源は、元が日本に通交を迫り、北条時宗がその使者を退けた文永五年(一二六八)にまで遡(さかのぼ)る。この年、同時期の元のフビライによる、サハリンへ進出した骨嵬(アイヌ)への征討作戦(日本にとってはもうひとつの蒙古襲来であるともいわれている重大事件。ただし直接に日本を攻めようとしたものではない)ともかかわって、北辺でも蝦夷の蜂起があった。そのことは、次に掲げるような鎌倉時代の著名な僧、日蓮の書き遺した記述のなかに見出すことができる。
 
而(しかる)に去文永五年の比、東には浮(ママ)囚をこり、西には蒙古よりせめつか(責使)ひつきぬ。(中略)真言をもって蒙古とえそ(蝦夷)とをてうふく(調伏)せは、日本国やまけすらんとすひせ候ゆへに、此事いのちをすてていゐてみんとをもひしなり。
(三三蔵祈雨事、史料五八二・写真132)


写真132 三三蔵祈雨事
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ヱソ(蝦夷)ハ死生不知ノ者也、安藤五郎ハ因果ノ道理ヲ弁ヘテ堂塔多ク造ル善人也、イカニシテ頸ヲハヱソニ取ラレヌルソ、
(佐渡御勘気御抄、史料五八三・写真133)


写真133 佐渡御勘気御抄

 
 日蓮の北方に関する情報源が何であったのか大変興味深いところであるが、そのことは別にして、こうした蝦夷反乱の渦中で、蝦夷管領安藤五郎(太郎)なる者が、蝦夷によって首を取られてしまったのである。
 となれば、これは紛れもなく蝦夷管領安藤氏に対する反乱なのであり、したがってそれはとりもなおさず、蝦夷管領を任命した鎌倉幕府あるいは中世国家に対する反乱ということになる。
 北条得宗家の幕政全般における権力掌握につれて、得宗家は全国的海運をも掌握するに至っていた。あるいはそれに伴う蝦夷地からの収奪強化が蝦夷蜂起の原因かもしれない。
 また中世の仏教説話集である『地蔵菩薩霊験記』には、この安藤五郎が仏教を夷島に持ち込もうとして苦労したり、鎌倉建長寺の本尊の地蔵の化身が蝦夷に馬鹿にされる話がみえているが(史料五八六)、安藤氏による、こうした仏教の導入が、逆に蝦夷固有の信仰に対する邪魔者を持ち込んだものとして反発を買った可能性もある。