このように、北辺における蝦夷沙汰が困難な情況にあったことが、所領や蝦夷管領の職をめぐる争いともからまって、安藤氏の内紛を引き起こすことになるのである。
つまり、この乱は、第一義的には、実は中世国家の東夷成敗権と密接な関係を持つ「蝦夷」の反乱なのであり、安藤氏一族内部での蝦夷管領職をめぐる単なる惣領争いではなかった。右に挙げた『鎌倉年代記』に「蝦夷蜂起」(史料六一二)、文保二年(一三一八)五月二十一日の「北条高時書状」(史料六一〇)に「蝦夷已静謐之間」とみえるように、この乱は当時の人々の認識としては明らかに蝦夷の反乱なのであり、中世国家の北方支配にとっての重大問題と認識されていたのである。
『鶴岡社務記録』には、この時「蝦夷降伏」の祈祷がなされたことが見えるが(史料六一八)、そこにおいて行われた修法は、弘安時の蒙古退散祈祷に匹敵するものであった。まさに元寇と同格の位置づけが北辺の争乱に対してもなされていたのである。
また『諏方大明神画詞』(史料六一七)や『保暦間記』(史料六一六)がこの事件を取り上げたのも、まさにそれが東夷の蜂起そのものであったからともいえよう。『諏方大明神画詞』が、諏訪大社の鎌倉末期における霊験譚としてこの乱を特に選んだのは、「凡神ノ奇特、三韓征罰以来延暦桓武ノ御宇ニハ将軍ト身ヲ現シテ官兵ノ戦功ヲ扶助、文永弘安ノ皇朝ニハ大龍ト身ヲ現シテ蒙古ノ強暴ヲ対(退)治ス。嘉暦近年又以加クノコトシ。本朝擁護ノ神徳、異賊降伏ノ霊威、影響ノ冥応古今日新ナル者也」と記していることからも明らかなように、まさに「蝦夷」が「皇朝」「本朝」に対して「三韓」「蒙古」と同様の「異賊」であったという異民族意識が基底にあったからである。
たしかに安藤の乱に先行して、事実として蝦夷の乱があったわけであるが、それを中央の人々がどれくらい意識していたかについては別として、安藤氏が蝦夷の系譜に連なる一族であったと見なされていたこと、戦場自体が蝦夷地と称されていたこと、安藤氏がその蝦夷地の代官であったこと、安藤氏と行動をともにした蝦夷のなかには確実にアイヌもいたこと(『諏方大明神画詞』の記述のなかには、イナウなど、アイヌ特有の風俗が描かれている)これらのことから、中央の人々がこの乱を蝦夷の乱と意識するには十分な理由があったのである。
もちろん、乱に対する幕府側の対策を見てみると、そこでは蝦夷管領職の動向が問題とされているし、鎌倉末期における蝦夷管領職は得宗家の管轄下にあったのだから、『鎌倉年代記』『保暦間記』『諏方大明神画詞』などがこの乱を取り上げたのは、得宗家管轄下の得宗所管所職の動揺を示す典型例としてであったことも確かであろうが、鎌倉末期における御内人の反得宗的行動はひとり安藤氏だけでなかったことからすれば、やはり中央で蝦夷の蜂起と見なされたことが、記録として残された重要な理由の一つであったに違いない。