一族の分裂

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同年十二月には、降伏人のうち津軽に留め置かれた五〇人余と、それを預った二〇人余の交名(きょうみょう)(連名録のこと。史料六五二)が作成されている。それによれば曽我氏工藤氏・小川(河)氏も、いずれも一族分裂して戦ったさまがうかがわれ、降人にも預人にも双方に、同じ一族の名が見出だせる。
 ちなみに降人の一人「工藤六郎入道道光」は、弘前市田町の熊野奥照神社境内にある建武三年銘の板碑(写真135)に見える「道光禅門」その人であると推定されている(資料編1・五九四頁)。

写真135 熊野奥照神社板碑

 また降人の半分近くは、安藤氏一族に預けられており、ここから安藤氏の勢力の強さを垣間見ることもできよう。
 また津軽に所領を有していた下総結城氏の庶流白河氏なども、足利尊氏の入洛以前に早くも千種忠顕(ただあき)に属して六波羅を攻撃している。鎌倉幕府の現体制が続く限り、庶流では、大きな本領を獲得することは無理である。こういったクラスの不満多き武士たちは、積極的に後醍醐方に参加していった。
 ちなみに鎌倉攻撃に馳せ参じた南部時長(ときなが)・政長(まさなが)兄弟も、甲斐国の本領を、長崎思元の聟(むこ)となった従兄弟の南部武行に押領されており、その不満を幕府打倒に向けたのだといわれている。