顕家からの安堵

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こうした建武方としての働きによって、建武二年、安藤高季は無事、宗季譲状の地を顕家の陸奥国宣によって安堵された(史料六七一)。
 しかし、この国宣(こくせん)は異例ずくめのものであった。たとえばここで安堵されたのは、北条氏時代以来の地頭代職であるが、地頭職ではなくて地頭代職を国宣によって安堵するのは他に例がない。また右記したごとく、すでに高季は、勲功賞として平賀郡上柏木郷を安堵されているのに、本領はようやくここに至って初めて安堵されるという遅さである。さらにこの本領は、「蝦夷沙汰」と密接な関係を持つものでありながら、この安堵状には「蝦夷沙汰」の文字がないのである。
 もっともこうした異例さこそ、安藤氏の蝦夷沙汰のもつ意味の重要性を顕家が認識していたからだといえよう。この権限は、かつて北条氏から足利尊氏が受け継ぎ、安藤高季に望んでいたものである。蝦夷沙汰は、当時、足利尊氏にかわる鎮守府将軍に予定されていた北畠顕家直轄という意識もあったのであろう。