分裂した蝦夷沙汰

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もっとも、北朝で征夷大将軍に任命され、幕府を開いた尊氏には、もはや鎮守府将軍に任命される資格はない。古代においては坂上田村麻呂陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守府将軍征夷大将軍の四官を兼ねた例があるが、これは空前絶後のことである。蝦夷沙汰と深くかかわる鎮守府将軍は南朝方に置かれたままであった。観応元年(正平五年、一三五〇)、尊氏と対立した足利直義は、南朝によってその鎮守府将軍に任じられている(史料七〇五)。
 延文二年(正平十二年、一三五七)、秋田小鹿島を安藤孫五郎入道が押領するという紛争が発生しているが(史料七一六)、これは秋田の蝦夷沙汰のため、鎮守府将軍足利直義が安藤孫五郎を抜擢したのが原因だと推測されている。尊氏は安藤師季らをその処理に当らせた。
 このように分裂した蝦夷沙汰をどう統合するかは、室町幕府政治の重要課題となった。その解決は三代将軍足利義満(写真159)のときまで待たなければならない。

写真159 足利義満