目次
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新編弘前市史 通史編1(古代・中世)
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第5章 中世後期
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第一節 北辺の南北朝動乱
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三 南北朝期の津軽安藤氏の動向
分裂した蝦夷沙汰
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もっとも、北朝で
征夷大将軍
に任命され、幕府を開いた尊氏には、もはや
鎮守府将軍
に任命される資格はない。古代においては
坂上田村麻呂
が
陸奥
出羽按察使・
陸奥
守・
鎮守府将軍
・
征夷大将軍
の四官を兼ねた例があるが、これは空前絶後のことである。
蝦夷沙汰
と深くかかわる
鎮守府将軍
は南朝方に置かれたままであった。観応元年(正平五年、一三五〇)、尊氏と対立した足利直義は、南朝によってその
鎮守府将軍
に任じられている(史料七〇五)。
延文二年(正平十二年、一三五七)、秋田小鹿島を安藤孫五郎入道が押領するという紛争が発生しているが(史料七一六)、これは秋田の
蝦夷沙汰
のため、
鎮守府将軍
足利直義が安藤孫五郎を抜擢したのが原因だと推測されている。尊氏は安藤師季らをその処理に当らせた。
このように分裂した
蝦夷沙汰
をどう統合するかは、
室町幕府
政治の重要課題となった。その解決は三代将軍
足利義満
(写真159)のときまで待たなければならない。
写真159
足利義満