寛政十年(一七九八)五月二十七日、「兎角(とかく)成立不申、却而(かえって)難渋弥増」(同前No.八二)として土着策が廃止された。これに先立って、同年五月二十三日・二十四日に、家老牧野左次郎、用人赤石安右衛門、勘定奉行菊池寛司が御役御免蟄居(ちっきょ)を命ぜられている。いうまでもなく土着策の責任をとらされたのであるが、赤石が同年三月二十八日に五〇石加増されて用人となっていることから、廃止側の家老津軽中書永孚(つがるちゅうしょながざね)と赤石らとの対立の表面化は、同年三月以降と見なすことができる。