情事の発覚

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桃井(もものい)村(現西津軽郡柏村広須)勘左衛門の妻つなは、文化二年(一八〇五)四月二十日の夜、同じ村に住む半三郎の息子の長太を誘惑し情事に及んでいたところを夫に発見された。そこで夫の勘左衛門は怒って長太を殴りつけたが、打たれた場所が悪かったためか、やがて長太は死亡するに至った。人道に背いた行為をしたつなは、鞭刑(べんけい)三〇に相当するのだが、婦人の鞭刑は一五鞭が最高限であるため一五鞭に減らし、実家へ返したうえ残りの一五鞭の分は罰金として納入するようにと、桃井村端で御徒目付(おかちめつけ)より申し渡されたのである(同前文化二年九月六日条、資料近世1八八八~八八九頁)。
 この判決(申し渡し)には、「寛政律」の総則的な項目第一六「婦人犯罪候事」の中の「一、婦人之罪を犯し候ハ鞭十五ニ不過、鞭十五以上ニ相当候節ハ十五切にて、残数ハ過料ニ而罪贖可申事」と、各則的な項目第九五「姦淫」の中の「姦淫之者鞭九男女可同罪事、夫有之者ハ鞭三十」の両者が適されている(蝦名庸一「弘前藩御刑法牒(寛政律)」『弘前大学国史研究』第一五・一六合併号)。
 鞭刑の執行方法は、幕府の場合には牢屋敷の表門前に筵(むしろ)を三枚敷き、罪人および引取人らを並ばせる。牢屋奉行の石出帯刀(いしでたてわき)、見廻与力(みまわりよりき)・検使与力・御徒目付・小人(こびと)目付が表門前の石畳の上にずらりと並び、門外右方に鍵役、左方に打役(うちやく)・数役(かぞえやく)・手伝いの非人・医師などが出そろう。意が整うと、罪人を下帯(したおび)だけの裸にし、本人の脱いだ着物を筵の上に敷き、その上に腹ばいにさせて、下男四人が手足を動かぬように押さえつける。
 そこで、打役の一人が箒尻(ほうきじり)(鞭のこと)で肩から臀部(でんぶ)にかけて、背骨を避けて力いっぱい打ち叩く。箒尻は長さ約六〇センチメートル、周囲は約九センチメートル、竹片二本を麻苧(あさお)または革で包み、その上を紙捻(こより)で巻いたものである。一説に、すぐり藁を観世(かんぜ)よりで巻いたもので、周囲約一二センチメートルであったという。打役が打つたびに、数役が大声で「一つ」「二つ」と勘定し、手心を加えることはなく厳格に行われた。罪人が気絶すると、立ち合いの医師が水や薬を与え、少し休ませて残りの数だけ打ち、申し渡しの数が打ち終わると、衣服を着せて引取人に渡して鞭刑が終了する(前掲『拷問刑罰史』)。

図10.牢屋敷門前の敲刑

 津軽領では、男の鞭刑は裸にして行ったが、「寛政律」によれば、婦人のそれは姦淫以外は襦袢の上から敲(たた)くことになっていた。執行の場所は、見せしめのために村端や町はずれが多く利されている。鞭は長さが約一メートル、握る部分の直径が約一・五センチメートル、先端が約六ミリメートルで、樫を心(しん)として唐竹で被い、その上を麻で巻き、さらに漆で塗り固め、握る部分は革を巻いて作ってある(「国日記」寛政七年六月晦日条)。
 つなは桃井村の村端で裸(短い腰巻姿ヵ)にされて一五敲かれ、終わって実家に引き取られていったわけである。