非人小屋の設置と餓死者の処理

54 ~ 54 / 767ページ
領内では九月に入ってしだいに餓死者が多くなり、藩では飢えた者一人一日につき三合ずつの御救米を出したが、日を追って人数が増え、一人につき一合、その後七勺・五勺と減らさざるをえず、ついに九〇〇〇人余・一三〇〇軒に達した。九月中旬ごろになって非人小屋(ひにんごや)を(かわら)ヶ町に二軒、猫右衛門町(ねこえもんちょう)(現市内松森町(まつもりまち))・石渡(いしわたり)村(現市内石渡)に各一軒を設置し、一人一日に粥一合を与え、一軒に五、六〇人を収容した。十月十三日には南横町(みなみよこちょう)・東長町(ひがしながまち)の外れに二間(三・六メートル)に五間(九メートル)の一〇坪の小屋を二軒増設し、一人一日につき粥五勺ずつを施したが死亡者が続出し、まだ息が絶えていない瀕死の者などを犬や猫が食い散らして、死骸が散乱していた。
 そのため藩では、和徳町(わとくまち)・貞昌寺(ていしょうじ)(現市内新寺町)・大円寺(だいえんじ)(現市内銅屋町、最勝院所在地)・誓願寺(せいがんじ)(現市内新町(あらまち))の四ヵ所に穴を掘り、一穴に四、五〇〇人ずつ葬っている。このような惨状に、翌九年春には、窮民の盗賊が横行し、藩では盗賊改奉行(とうぞくあらためぶぎょう)を設けたほどである。元禄八年八月より九年八月までの餓死者は一〇万人余とされ、荒田は一万二〇〇〇町歩、空家七〇〇〇軒余に達したといわれる(資料近世1No.八五五)。