奥羽列藩同盟の成立

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さて、白石同盟が成立した後、続いて閏四月二十九日に場所を仙台に移して、列藩会議が開かれた。この席では、仙台藩が起草した太政官建白書が討議にかけられたが、それは、去る二十日に暗殺された鎮撫総督参謀世良修蔵らの弾劾や、討会・討庄についても薩長の恣意から行われている行動だと糾弾するものであった。その中で薩長両勢力を「国賊」として追討すべきという姿勢もみせていたのであった。これでは、和平策を模索し、自藩の進むべき道を決めかねている諸藩が受け入れられるはずはなかった。多くが戦争を避けるために集結しているのに、このような建白書は戦争を仕掛けていると受け取られても仕方がないものであった。
 結局、仙台藩の草稿は衆議で否決され、この過激な箇所は削られることになった。また、白石同盟が結成された際の条約書に修正が加えられ、五月三日、あらためて各藩代表による条約書への調印がなされ、奥羽列藩同盟が成立したのである(資料近世2No.五二八)。
 八ヵ条からなるこの盟約書は、奥羽列藩会議が仙台において、鎮撫総督府に内容を告げて盟約をすると前文で述べてあるが、これは、奥羽列藩同盟朝廷に反するものではなく、あくまでも鎮撫総督の認可を受けたもとでの同盟であるということを内外に主張するものであった。

図50.奥羽越列藩同盟参加各藩

 盟約書の内容は、諸藩の衆議を前提として、同盟諸藩の相互援助と協力関係をより厳密に規定し、単独行動を禁じるために、同盟諸藩の行動に関して、互いの監視・通報義務が負わされた。そして、条項に背いた場合には制裁を受けるということも確認された。こうして奥羽諸藩の強い連携と総督府とのつながりを重ねて明示することで、朝廷に離反するものではないと内外に主張する内容であった。
 調印は、二五藩の代表の手によって行われたが、この中には、庄内征討の先導役を務めた天童藩の署名もあった。同藩は、奥羽諸藩の動きに逆らえず、討庄の先導役を総督府に辞退するとともに、中心となった中老吉田大八を切腹させるという大きな犠牲を払って、奥羽列藩同盟に参加したのであった。さらに、同盟は奥羽諸藩だけではなく、北越諸藩にも働きかけ、その結果、藩論を反政府側に決着させた長岡藩をはじめとして、新発田(しばた)藩、村上藩、村松藩、三根山(みねやま)藩、黒川(くろかわ)藩などが加わり、ここに奥羽越列藩同盟が成立したのである。