旧弘前藩の債務処理

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さて、以上は藩札発行だけにかかわる債務問題であったが、弘前藩が廃藩までに抱え込んでいた藩の債務はそれ以外にも数多くあった。この中には藩が存続していればほぼ放置し続けることも可能な古借財もあったが、廃藩置県によって藩の全債務を総精算しなければならなくなったのである。
 では、弘前藩の債務額はどれほどだったのであろうか。『津軽承昭公伝』では朝廷よりの貸付金の内、残高六万四〇〇〇両、大坂負債額二一万三四七八両一歩二朱と永(銭)一八二文、北国筋負債額五六五両一歩と三〇〇文、東京負債額三四万六一八九両一歩一朱と七八文九二(九歩二厘)、四件合計六二万四二三二両三歩三朱と五六〇文九二としている。弘前藩の歳入は文久三年(一八六三)から慶応二年(一八六六)までの年平均で金四四万九六九二両と永一貫一一九文であり(松尾正人「東北における維新変革の一形態~弘前藩の藩政改革」『地方史研究』一三三 一九七五年)、これから計算すると、藩債が歳出に占める割合は約一三八・八パーセントと大幅な債務超過となる。
 また、表19に示した資料では弘前藩の債務額は金二六万四三六八両二朱、銀三万八七六二貫一七五匁、銭一六八貫七一文、洋銀一万ドルとなり、このうち国内債務だけでも金四九万一八五八両余と換算され、これも対歳入一〇九・四パーセントと超過している。こうしてみれば、藩財政はもはやまったく破綻しており、廃藩置県という政策断行以前に藩体制は崩壊していたと判断できそうである。ところがこの資料に記載されている借財を詳しくみると、借金をした年代が元禄時代(一六八八~一七〇三)にさかのぼるため証文の所在さえ不明になっている例や、藩側があまりにも返却を遅らせたため債権者が取り立てをあきらめた例、元金や利子を藩が強制的に縮小させたり、債権者の返済条件を不届きだとして一方的に藩側が債務放棄している事例など、さまざまである。
表19.弘前藩債務一覧(明治4年7月当時)
No.費目債務件数債務額(金)同(銀)同(銭)同(その他)備 考
1朝廷の部480,554両3分2朱3貫420文
2東京の部52102,185両3分2朱68匁1分1厘旧幕府間の債務と,弘前藩側が債務破棄をしたと思われるもの32件は除外した。
3東京の部7120,185両1分2朱360匁1分9毛164貫66文
4大坂借入の部22216,546両  2朱19,473貫558匁1分585文
5大坂古借の部20624,372両3分2朱19,288貫189匁4分1厘
6当座借財内国の部620,000両
7当座借財外国の部1洋銀10,000ドル
合計562263,845両  2朱38,762貫175匁
(金228,012.79両)
168貫71文洋銀10,000ドル資料では銀170匁=金1両に換算している
注)銀を金に換算して合計すると約491,858両となる。「藩債取調帳」(弘図津)より作成。

 たしかに債務額だけを客観的に考察すれば藩財政はすでに破綻しているが、廃藩置県が断行される以前では、藩が消滅するという事態を誰しも予想し得なかったのであり、巨額の借金を重ねながらも藩財政逼迫打開の途を模索していたのである。