よって、明治三年六月以降、藩としての最大の問題は士族・卒の困窮化をいかにくい止めるかにあった。そのため考案された解決策が帰田法であった。
弘前藩の帰田法とは、領内の地主・豪商の所持する田地の内、一〇町歩だけは彼らに残し、あとは強制的に藩が廉価(れんか)で買い上げるか、または献納(けんのう)させて、士族・卒の家禄高に応じてこれを配賦(はいふ)した政策であり、余田(よでん)買い上げと表現した例もある。もっとも藩士の帰農についてみれば、当時は何も珍しい政策ではなく、財政が破綻(はたん)しかかっていた全国の諸藩では盛んに行われていた。ところが、それらの場合、いずれも耕地配賦と引き替えに、または自活のめどが立った段階での家禄支給の打ち切りが大前提とされていた。しかし、弘前藩の場合は田地配賦とともに従来の家禄支給も約束されており、士族・卒にとって圧倒的に有利なもので、こうした帰農策をとった藩は弘前藩しか確認されていない。帰田法が帰農策であるか否(いな)かは微妙な問題であるが、まずは政策推移の過程をみていこう。