経営が長期に続いていけば大きな利益があがると見込まれていた青森商社の結末は、ひとつの決定的な出来事によって結末を迎えた。明治四年(一八七二)七月の廃藩置県(はいはんちけん)により、推進主体の弘前藩が消滅したのである。
しかし、もし廃藩が断行されなかったとしても、商社内部ではしだいに深刻な対立が生じ、空中分解する危険性があった。それは商社に参加した青森側商人と弘前側商人の立場の違いから生まれた。もともと、青森は蝦夷地への玄関口に立地した港町であり、商人たちは同地へ行く通行人に旅の必要品や宿を提供し、米・味噌・醤油・油・藁(わら)製品といった蝦夷地が必須とする諸物資を移出することで繁栄してきた。ところが、青森商社が設立されて弘前商人が加担商人として参加するようになると、彼らはそうした青森の市場を荒らすようになっていった。青森商人としては、戊辰戦争で支出した官軍賄費(まかないひ)の償還もないうちから商社の積金を取り立てられ、弘前商人によって利益を横取りされたのではたまったものではない。さらに、商社は青森が本局とされたのに、支局の弘前側が主導権を掌握するのは耐え難いことであった。これらの事情を滝屋は、商社は「当青森ノ為メ方ニ相成候義更々無之」と不満を述べている(「家内通観」明治三年七月晦日条)。
そのうえ、弘前の商人には目に余る行動をとる人物もいた。その典型が今村九左衛門と養子(実は九左衛門の実弟)勇吉郎父子である。滝屋の日記から判断すると、今村は野心的な商人であったようで、手船で領外各地の産物集めに奔走(ほんそう)する一方、青森に出店したり、商社の公金を使って外国人と交易契約を交わしたが、結局は数万両の赤字となった。今村家はやがて家財を没収された。分裂の火種は常に商人の間でくすぶっていた。
廃藩置県によって青森商社の活動は停止し、日記を書き連ねた彦太郎も同年病死した。その後、蝦夷地交易の主導権は開拓使(かいたくし)が掌握したが、初発の開拓使には潤沢(じゅんたく)な資金がなく、零細漁民に対して弘前藩が行ったような厚い前貸金の貸与ができなかった。そのため翌五年には道南一帯で大規模な漁民一揆の檜山騒動(ひやまそうどう)が勃発(ぼっぱつ)したのである。