紙漉町熊谷喜兵衛

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この喜兵衛が史料に初めてみえるのは、天和二年(一六八二)、次いで貞享四年(一六八七)二月、北の丸久祥院御殿の唐紙(からかみ)二〇〇〇枚を漉き立て献上した記事である。
 元禄四年(一六九一)に紺屋町末紙漉所、同八年に西坂下紙漉所が廃止され、御紙漉紙漉町の喜兵衛だけになった。享保十年(一七二五)十二月、七十三歳で病死するまで紙漉町名主紙漉頭の御を勤めた。その間、元禄十四年の楮町取り立て、享保四年からの国産半紙増産事業に貢献した。

図133.紙漉町図