富田御屋敷跡における製陶

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明治四年(一八七一)の「山林方書付留」と「諸稟底簿」(ともに弘図津)等によると、京都より瀬戸師吉兵衛を招き製陶が計画されている。瀬戸座取り立ての場所は富田御屋敷(藩主別荘、九代寧親の代に造成)跡で(この辺は九十九森とも称されていた)、同年三月二十八日には陶師・画工・裏働き等八人が到着した。仕込金一〇〇〇両や職人扶持申し出等の記述はあるが、築窯・焼成に関する記録は認められない。京都清水焼の流れをくむといわれるが、遺品と称されるものも極めて少なく、ここも短期間で終焉したのであろう。なお、窯跡は特定されていない。