二の丸稲荷宮は、「
国日記」の二ヵ所に
記録がある。宝暦八年(一七五八)一月三十日条には、小姓組御錠口役が初午の供物を取り扱っているところから、この時に
稲荷宮のあったことが確認できる。また、寛政三年(一七九一)には御広敷
御用達が供物を取り扱っている。このように小姓組御錠口役、御広敷
御用達が供物の取り扱いをしていることから、この
稲荷宮は二の丸屋敷の奥庭にあったものとみられる。「
神社微細社司由緒調書上帳」(資料近世2No.四二一)は、
御城内二ノ御丸
一、御館神 一宇
と記している。ここには三尺四面の本殿があり、供米は月に五升で、初午の神事を行っていた。
棟札は、文政元年(一八一八)と嘉永五年(一八五二)の二枚があった。この「
神社微細社司由緒調書上帳」のみが、二の丸屋敷の
稲荷宮を「御館神」としているが、その理由はわからない。明治になってこの
稲荷宮がどうなったかは明らかでない。