この時期に乞食、餓死者、犯罪者が著しく増加し、伝染病、離婚、身代限りが続出、村が大きく動揺し、各地に激化事件が起きた。このため明治十七年(一八八四)再び村制度改革が行われた。戸長は官選とし、戸長役場管轄区域を平均五町村、五〇〇戸を標準と定めた。そして、それまでの町村会に対して厳しい統制を加え、村制度を変貌せしめた。近代日本の地方自治制度を憂いた井上毅(こわし)は「地方事情」の中で当時の戸長役場体制を次のように報告している。
戸長役場も中央官庁を真似(まね)た勤務態様をして杓子定規(しゃくしじょうぎ)で人民に不便をかけている。「農民ハ旧封建ノ時ハ年間農事ニ忙シキ故ニ日暮後ニ庄屋ノ内ニ願届ヲ持チ行キ、庄屋不在ナレバ庄屋ノ妻ニ預ケ置キ帰宅スル位ノ簡易ナル政事ナリシニ、今日ノ田舎政治ハ総テ中央官府ノ体裁ニ模擬スル故ニ、戸長役場迄モ儼然タル入口ヲ構ヘテ応接時限ヲ狭クシ、人民ノ為ニ無用ニ時間ヲ費シ一日ニテ済ムベキ事ヲ二日モ掛リ、昼飯弁当ノ用意ニテ旅行セシムルノミナラズ、時トシテハ旅店ニ一泊セシムルニ至ル、而シテ納税ナリ、徴兵、年金届ナリ、戸籍上ノ届ナリ、衛生上病人ノ届ナリ、戸長役場トノ関係ハ昔日ニ十倍セルヲヤ、(中略)或ル田舎ノ一人ノ話ニ今日民間ノ苦情ハ租税ノ重キニハアラズ、登記法及其他ノ手数ノ六ヶシキト収税役人ノ横行トニアリト云ヘリ、又戸長役場ノ関係ニ時間ヲ費スコトハ人民ノ為ニハ重税ニ当ルナルベシ、何トナレバ営業ノ為ニハ時間ハ第一ノ資本ナレバナリ」と農村生活に溶け込んでいた昔の簡素な庄屋制度に比べて、戸長役場の形式主義、事大主義が農民を苦しめていると鋭く批判した。