檄文は多くの人の共感を得、三〇〇〇に上る同志を獲得した。明治十三年三月二十七日、青森寺町蓮華寺で各地区の代表は請願の協議会を開いた。出席したのは、本多庸一、笹森要蔵(鎮西学院長笹森宇一郎や国務大臣で東奥義塾塾長だった笹森順造の父)、石岡三郎、小笠原宇八(のち青森町会議員)、樋口金蔵、今宗蔵(東義教師)、小山内清定、服部尚義、菊池九郎、山田改一(七戸町、のち県議)、斎藤太衛、乳井弘良、傍島正郡(まさくに)(師範学校教師)、伊藤利三郎、小田定雄、陸実(羯南のこと)、中市稲(とう)太郎(五戸通御給人)、田中眼叟(がんそう)(田中耕一のこと)、角鹿忠四郎(野辺地の商人)、伴野雄七郎、小友謙三(羯南の叔父、のち師範学校教師)の二一人である。
この会合で建白文が審議され、決定した。もっとも、この建白文は「青森県陸奥国八郡有志人民三千人の委員本多庸一等」という書き出しであったが、元老院に提出された建白文は「三千人の委員」が「二十一名の総代」となり、「本多庸一、中市稲太郎等」と変わっている。そのほかにも「碧眼奴(へきがんど)」が穏やかに「外人」に、また、英仏の革命を「驕傲(きょうごう)ノ暴民ノ跡」と言ったのに対し、「驕傲ノ民、恣(ほしい)ママニ私権ヲ張ルモノト固(もと)ヨリ其情ヲ異ニス、今乱国驕傲ノ暴民ノ跡ヲ以テ直チニ我カ堂々タル宝祚一系ノ君子国ニ擬スルハ是レ世道人心ヲ賊スル者、庸一等儀、此輩ト共ニ中国ヲ同フスルヲ欲セス」と愛国心を強調した。本多・中市の考えは、字句のトラブルで却下されてはならないという配慮だろう。建白書は四月十二日提出されたが、政府は四月五日、太政大臣三条実美の名でもって言論弾圧のため「集会条令」を発布していた。なお、中市稲太郎は五戸代官所の五〇石の御給人(地侍)であるが、福沢諭吉の書に親しみ、息子を慶応義塾に学ばせている。しかし、政治に産を破った悲劇的な一家だった。