明治十四年の巡幸

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明治十四年(一八八一)の再度の東北巡幸は、前回対象から外れた秋田、山形を主として計画されたものであったが、直接日本海側へは向かわず、再び奥州街道を北上するコースをとり、東北に入ることとなった。この年、明治天皇は二十九歳であった。
 七月三十日車駕は東京を出発、沿道の各県を御巡幸の上、青森に到着したのは八月二十七日、行在所に蓮心寺が充てられた。翌日軍艦で小樽港へ直航、北海道各地を巡幸の後、九月七日青森へ到着、往路と同じく蓮心寺を行在所とされた。次いで、一行は九日早朝青森を出発、羽州街道を弘前に向かわれ、浪岡で昼食、その後黒石に回られて、そこの住民の臨幸を仰ぐ願望にこたえられた。
 弘前町に入った一行は、和徳町、東長町、元寺町を町民垣をなして奉迎するなかを午後四時、弘前本町の行在所に到着された。行在所には本町の豪商金木屋の邸宅が充てられた。この日は快晴で、雲一つない、しかし、厳しい残暑の一日であったという。弘前の沿道の町では家ごとに日章旗を掲げ、日の丸の軒燈をつるし、道端にござを敷き、これに座ってお迎えした。
 翌十日、弘前裁判所に行幸され、所長中御門経明は賀表と事務一覧表を奉呈した。各学校への巡視の儀は、供奉(ぐぶ)の有栖川熾仁(たるひと)親王が参議大木喬任らを従えて代巡された。この代巡による奨励を受けた学校は、県立師範学校分校、同女子師範学校中津軽郡立中学、県立医学校東奥義塾であった(資料近・現代1No.二七八、二七九)。この日の予定は、石川を経て蔵館までの行程三里程度にすぎなかったので、午後二時行在所を出発、市中を出て、千年村、石川を経、夕刻蔵館の行在所(菊池宇之助の旅宿)に到着された。
 このようにして、弘前の行在所に充てられた豪商金木屋の邸宅跡(現弘前大学附属病院構内)、行幸があった弘前裁判所に後にそれぞれ記念碑が建てられた。また、弘前に滞在中に用いられた用水はすべて「富田の清水」から運搬してこれに充てたので、後にそのほとりに「御膳水」の記念碑が建てられた。また、十日午後弘前を出発された一行が、千年村で小休止されたが、その場所は、かつて藩政時代に藩公の行楽地として知られた千歳山の入り口に当たり、その現場にはこれを記念して駐蹕(ひつ)碑が建てられた。