新暦の採用

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明治五年(一八七二)十一月九日に改暦の詔が出て、わが国においても西洋諸国と同じように太陽暦を採用することになった。そしてこの年十二月三日をもって、新暦の明治六年一月一日と定めることにしたのである。『長尾周庸日記』の明治五年十一月二十八日の項に、
明治六年一月一日[旧暦十二月三日に/当たるなり]此日官員貫属社寺其外奉賀、当申正月元日式之通りと布令あり。取引之義は改暦の義に付、年末時日切迫致候ため、二月一日]旧暦十二月三十日/の事也]たるべき旨布令あり。

 とこの間の事情が述べられている。そして商家の年末取引は、この年に限り新暦の二月一日にするというのであった。
 翌六年一月五日には、県の権参事那須均から各の正副戸長に宛てて「太陽暦頒布下令」が布告になった。一に一冊ずつ太陽暦を配って、それに次のような趣旨の申し渡しがつけてあった。すなわち「従来の太陰暦は二、三年に閏月があって、年によっては季候の早晩がある。所が太陽暦には季候の早晩がなく最も精密便利なものであるから、新暦を御発行になった旨を篤と相弁まえ、永世に尊守するよう各区長は、毎戸に残る所なく触示しなければならぬ」と述べられている。
 次いで、同年三月に戸長に対して重ねて布令があった。それには「まだ旧暦を守っている者が多いが、それは心得違いのことである。四民の便利のためにした改定の旨を懇切に告諭し、そうした心得違いがないようにすべし」というのであった。何しろこの新暦採用は日常生活の根本に触れた画期的な大改革であっただけに、抵抗や混乱が甚だしかったのである。
 第一に、改暦の理由が一般によくのみ込めなかったこと、次に、新暦に従えば年中行事の感覚が合わず、農村では農事の手順が食い違ってくる。その点、長年の生活基準であった旧暦の方が実際的ではるかに便利であったので、理屈どおりには新暦に対して容易になじめなかった。これを合理化しようとすれば、結局新旧二度の正月行事をすることなどになるわけで、中には新暦は不便だからまた旧暦に戻るだろう、などと言いふらす者までもあった。
 こうした情勢を憂えて、明治八年二月十二日に、県参事塩谷良翰から各区長に次のような布令があった。それには「再び旧暦に戻るなどということは決してあり得ないことだから、世評に惑わされず専ら新暦を用いるようにせよ。また農事で必要があれば陰暦を照合すればすむことである。従ってむやみに旧暦にこだわることのないように毎戸洩れなく説諭を加うべし」というのであった。それと同時に、陰暦を用いることの特に多い神官や僧侶に対しては、新暦に切り換えるよう格別に告諭を出している。
 このような再三の布令による啓蒙や指導にもかかわらず、その都度新旧暦法の混用を助長する結果に終わり、新旧暦併用という複雑な生活が始まることになったのである。
 なお、新暦採用に伴って、これまでの旧暦に根ざした年中行事や祭が月齢と一致しなくなったため、おのずと元の信仰的な意義が失われて、次第に遊楽中心の内容になっていくことが大きな変化であった。
 次に、暦制と同じく時刻も改められて、従来の明け六つ・暮れ六つや十二支による呼び方に代わって、西洋風に午前何字・午後何字(当初は「時」を「字」と書いた)などと呼ぶことになった。また、七曜制も学校教育の上からまず行われ、明治七年三月から諸学校はすべて一週一日、つまり日曜日を休日とする旨の布告がなされている。