大成小学校創設

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十七年(一八八四)五月布達の学区改正により、これまで土手町、松森町、鍛冶町の三学区は廃され、それらが包含されて新しく「土手町学区(第二学区)」となった。したがって土手町学区学区内に蓬莱、知類、敬業の三小学校を有することになった。一学区に一小学校が例で、三校では多すぎ、経費もかかるので、三校合併案が地域住民から持ち上がった。三校合併案は十七年十一月学区町村聯合会(「学区町村聯合会」とは学聯区ではあるが、三校とも隣接村落〔清水村、豊田村、和徳村など〕の児童を入学させていたので学区のほかに「町村聯合会」を付していた)で正式に建議され、満場一致で可決され、一校新設されることになった。
 新校舎は、在来の三校の中央位置というので土手町一五七番地(旧第一大成小学校敷地、現在は一五四番地一)に設置、校舎は蓬莱小学校をそのまま移築した。校名について種々論議があったが、結局「大成」と命名された。この命名については、三校合併に奔走し、その後も大成小学校の後援を惜しまなかった大高歳行の命名だろうと言われている。大高は、後に弘前市会の初代議長を務めた人として知られている。

写真57 大成小学校(明治24年落成の校舎)