公立弘前中学校の修業年限は、他郡の中学校より一年多く四ヵ年であった。発足時の教員数は五人、生徒数は一六〇人であった。校舎は弘前亀甲町の師範学校弘前分校内に設置された。公立弘前中学は十四年に至ると生徒数が二三一人と増加し、中津軽郡町村聯合会は議決して、下白銀町の東奥義塾内に校舎を移した。しかし、十八年九月公立中学校から出火、東奥義塾に延焼して両校とも焼失した。
写真59 公立中学校在籍生徒学齢調(明治17年)
公立弘前中学校は再建を策し、中津軽郡内の有志に校舎新築費用の寄付を呼びかけた。それに応じて寄付金が集まり、元寺町(現弘前文化センター敷地)に新校舎の設立が決定した。ところが、十九年八月「小学校令」の実施により、公立中学校より高等小学校の設立が急務となったため、工事途中の中学校校舎を高等小学校に転用、生徒を収容した。これによって公立弘前中学校は全く廃止された(注、公立弘前中学校は、後年の青森県尋常中学校〔現県立弘前高校〕とは何らの関係もなく、全く性格の違う中学校で、明治十九年八月の「中学校令」公布で消滅した)。