なお、明治二十一年(一八八八)の市制・町村制で、町村長および助役は名誉職が原則であった。町村制第五五条は、町村長および助役の有給はあくまで例外と位置づけていた。このため戦後、名誉職制が廃止されるまで、常に町村長および助役は有給よりも名誉職の方が数も割合も圧倒的に多かった。明治二十二年の町村長の名誉職の割合は八四・八%、昭和十年は九四・〇%である(日本帝国統計年鑑)。助役も二十二年は八六・五%、昭和十年には七八・一%だった。
名誉職の場合、給料をもらわないで、自分の有する職業の傍ら自分の力を割いて町村の公共のために働くのである。しかし、単なる経済的余裕のある者だけでは町村事務をこなし得ず、有給吏員出身で町村行政運営のエキスパートが、決して高くはないが、相応の報酬を得ながら名誉職町村長として活躍するのが実際の姿である。特に、日露戦争以後の増大する町村事務を名誉職町村長や名誉職助役でこなしていくためには、報酬の増大が特に必要となった。もっとも、「無給」「有給」とも国・県・郡による財政支出はないということで、給与でない報酬はすべてその町村に委ねられていた。
また、町村での名誉職は、公民に課せられた義務として、正当な理由なくして職務を拒否できない。拒否の場合、公民権停止と町村費増加という処罰が決められていた。もっとも処分するのは町村会であったから、運用はさまざまである。この名誉職制に対応して、地方有力者優遇のため、明治二十一年の市制・町村制の議会選挙法は、選挙人を直接市町村税の多寡によって、市は三級、町村は二級に分けた。議員定数が同数に二分または三分されるため富裕者の一級選挙人団は少数で、二級・三級と同数の議員を選び、一票の価値はより大きかった。制限選挙と不平等選挙を組み合わせた制度なので、町村の等級選挙は大正十年、市は同十五年に廃止された。