日清戦争終了後の民情

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日清戦争は欧米諸国の予想とは裏腹に、日本の快進撃が目立った。弘前市出身の医師佐々木瀞は、明治二十七年(一八九四)十一月二十六日、弘前市で行われた祝勝会で、連戦連勝が「未曾有ノ名誉」であり、「天皇陛下ノ御威徳」と「忠君愛国ナル陸海軍ノ勇武」によるものだと演説している。そして「紛骨砕身一死以テ天恩万分ノ一ヲ報ヒ」て「臣民タルモノ一致共同愈団体ヲ鞏固(きょうこ)」にしなければならないと強調しているのである。
 佐々木の演説には日清戦争を戦う当時の日本人の意識がよく示されている。「連戦連勝トハ欧米各国否五大州世界ハ広シト雖未曾有ノ名誉」であるという。欧米列強に並ぶ快挙を叫び、日本が世界の一等国になれると意識し出したことが読みとれよう。その反面、清国を「豚尾漢カ暴慢無礼吾カ皇軍ニ発砲シ」と呼び、「豚尾ヲ奴隷トシ早ク凱歌ヲ奏シ」たいと述べているのである。中国への侮蔑表現が芽生え始めていることに注目したい(前掲『青森県史』資料編近現代2)。
 弘前市出身者を含む第二師団の戦功もあり、明治二十八年(一八九五)四月十七日、日清講和条約(下関条約)をもって日清戦争は日本の勝利に終わった。しかし戦争である以上、死傷者が出るのは当然だった。とくに第二師団では山東半島上陸以後、青森県や弘前市出身者の戦病死者が増加した。日清戦争は日本人にとって初の対外戦争であり、日本という国家が行った戦争でもあった。戦病死者に対しては、良くも悪くも国家のために戦死したという意識が強かったのではないだろうか。県内各地で戦死者の葬儀、埋葬、建碑が神社の境内で催されるようになり、全体的に華美になる傾向を見せていた。
 日清戦争前後の段階では、国家のために戦死し、国家が戦死者を英霊扱いして葬ったというよりも、戦死者の身内や郷里の人たちが戦死者を悼む風潮が強かった。とくに士族の場合などは藩士同士の交流関係が強く、その意味で郷里の人的交流が深く浸透していたと見てよいだろう(詳細は前掲『青森県史』資料編近現代2の第一〇章第二節「郷土意識と地域像」の資料と解説を参照)。
 けれども政府は、国家の神明を祭祀する神社で戦死者を祭るのは、神明に対して憚るべき儀として厳重取締りの対象としていた。戦死者の葬儀に莫大な金員を投じる傾向に対しても、家族救護の費用に転用するよう郡役所を通じて通達している。初の対外戦争を通じて、政府や軍当局は戦死傷者の救済活動の必要性を痛感し出したのである。事実、上北郡役所などは管下町村当局に対し、出征軍人の家族補助を調査しており、同様の調査は他地方ないし他府県でもあったと思われる。
 これ以前からも、たとえば西南戦争での戦死者を弔うために招魂祭を実施するなど、政府は国家のために戦死した人々を公的に顕彰しようとしてきた。日清戦争で勝利したとはいえ、三国干渉から対ロシア戦を考慮せざるを得なくなった政府としては、軍隊を内乱防止のための軍隊から、対外戦争を戦い制圧する軍隊に組織せねばならなくなった。それには徴兵制度の拡充が必要だった。後年師団の拡充などで実現するが、対外戦争を戦うためには、国民の国家に対する忠誠を引き出さねばならなかった。そのためにも日清戦争で負傷し戦死した人々を顕彰し、遺家族を慰撫・救済する運用手段を講じる必要があったのである。
 だが時の政府は、それを講じるだけの莫大な費用や人員・物資を、国家予算で賄おうとはしなかった。戦死傷者の顕彰や遺家族の救済事業は、その人々の生活する各地域で支援する運用を講じたのである。その一方で政府は、藩の意識など、地縁・血縁中心だった戦死者との関係から、国家神道や公葬などを通じて、国家との関係を重視するような運用システムを導入しだした。地域にある軍隊組織を通じて、地域と軍隊との関係も強化するようになったのである。