奥羽本線の開通

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殖産興業政策の一環として位置づけられた鉄道は、明治五年(一八七二)に新橋-横浜間において開業されたが、財政窮乏のため、その後は日本鉄道会社をはじめとする私設鉄道が各地で敷設され、軍事的利用をも考慮し、規格も統一された。明治二十四年(一八九一)九月には、日本鉄道会社による上野-青森間の東北本線が全通した。官設鉄道に関しては、明治二十五年七月に鉄道庁が逓信大臣の管掌に属することとなり、翌年四月、福島-青森間の奥羽本線建設のため青森に鉄道庁出張所が設置され、官設鉄道として福島と青森双方から着工した。そして翌年十二月一日、福島-青森間のうち青森-弘前間が開通し、その営業は青森出張所の管理となり、一日三往復の営業から徐々に本数を増やしていった。また、同時に、すでに開通していた上野-青森間の東北本線との連帯運輸も開始された。
 この奥羽本線敷設に関して、当初は停車場を黒石町に設置する予定であったが、弘前市会議長田中耕一が政府に意見書をし、弘前市への設置の必要性を力説した(資料近・現代1No.三八一)。明治二十八年(一八九五)十月二十一日、弘前-碇ヶ関間が開通、三十二年六月二十一日には碇ヶ関-白沢間、同年十一月に白沢-大館間が開通と敷設距離を延ばしていき、結局奥羽本線の全面開通は明治三十八年(一九〇五)九月であった。明治三十九年四月十六日から福島-青森間には毎日上下各一回の直通旅客列車が運転された。

写真84 鉄道開通時の弘前駅

 鉄道省編『日本鉄道史』(一九二一年)によれば、鉄道が普及する一方で、各地で事故も発生しており、奥羽本線に関しては、明治四十二年四月に暴風雨と融雪があいまって河川の氾濫が起き、線路が浸水し、大鰐-弘前間では土砂崩れのため貨物列車が脱線転覆している。