国家主義教育の浸透

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明治二十三年(一八九〇)十月、小学校令が改正された。これを「改正小学校令」と呼称するが、これは改正というより、これまでの小学校令を廃止し、新たに公布するに等しい内容であった。政府は改正の理由を、地方行政の整備と時代の推移によって、明治十九年の小学校令をこのまま実施していては、地方行政や地方学事に支障を来すので、緊急に改正したと称したが、富国強兵と万国並列を急務とする政府の、国家目的達成のための改正であった。
 改正小学校令の第一条は「小学校ハ児童生徒ノ発育ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必要ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」となっている。これは法令をもって全国の小学校教育の目的を、画一的に、また実体的に規定したもので、その点で極めて注目されるものがある。
 小学校教育の目的の最初に「児童生徒ノ発育」が採り上げられているのは、他日における兵士製造の場として小学校を意識した結果とされている。次いで道徳教育が採り上げられているが、この道徳教育は天皇の徳教を基にし、天皇の聖旨によって教育の根元となるべき「国教」を定めようとした宮廷侍講元田永孚や西村茂樹らの考えによるものであった。この道徳教育では徳目主義がとられ、忠君愛国を根幹に諸徳目が枝葉となって、巨木をなしながら天皇制教育の構造を打ち立てたものである。
 次いで国民教育が掲げられているが、改正を担当した文部省参事江木千之は「我帝国ハ紀元以還実に二千百有余年の沿革を経、其(その)言語、習俗、気風、制度、国体等皆本邦特有の性質を存ぜざるなし。而して宇内(うだい)に於て比類なきものは、万世一系の天皇を奉戴するの最大栄誉と最大幸福と有する是なり」として、日本という国家を繁栄させるには、これらを児童生徒に教えなければならない。それが「国民教育」だという。要するに政府の考える国民教育とは、天皇制国家主義教育の教科実践にほかならない。この改正小学校令公布の前後から、小学校現場にはさまざまな行事が入ってきて、行事を通して天皇制国家主義教育を強化する。二十一年四月に出された天長節、紀元節の学校における祝賀式挙行の命令もその一つである。弘前市内の小学校は、二十一年十一月三日初めて天長節祝賀式を挙行したが、儀式挙行後に祝意を表して、児童一同に配った赤飯は、天皇や国家を身近に感じさせるのに絶大な効果があった。また、二十三年十月に発布された「教育に関する勅語」は道徳教育の根幹をなす決定打となった。