これまで上白銀町の招魂社で行われていた招魂祭は、明治三十二年から公園本丸に祭壇を設け、靖国神社の大祭日に当たる五月五、六の両日に行うことになった。三十三年の招魂祭の模様を『東奥日報』の記事によって記してみよう。
まず、祭壇は、本丸の西寄りに東面して設けられ、正面に「忠肝義胆」と大書した額面を掲げ、その前に大アーチをしつらえて国旗を飾る。両側には大神燈をつるした。拝殿の南側には祭事係と神官や僧侶、北側には遺族の控所があり、来賓控室は本丸南端の延年楼支店に設けている。二の丸下乗橋の向かい側に各学校生徒の整列場所があり、そこから三の丸に連なって露店が立ち並んだ。大手門には大国旗を交叉し、その前には「正気還充宇内之間」「雄名永在雲霄之上」と書いた二旒(りゅう)の大旗を左右に建て、門扉には式場略図や余興次第を示して案内を便にしている。
さて第一日(五月五日)は、正午の花火三発を合図に前祓式、次いで午後一時に移魂式が行われ、夜は仕掛花火でにぎわった。第二日(六日)には午前七時から祭事執行して、十一時に終了した。
余興は花火を随時に揚げ、旧作事場跡で競馬が行われ、中でも軍人の軽業と三騎運動が珍しがられた。北の郭では撃剣があり、警察・監獄をはじめ城陽館・暘明館・北辰堂・明治館の町道場が出場した。二の丸では相撲があった。飾り物では兵器支廠前に田原藤太秀郷、祭場の周囲には見立忠臣蔵の人形が飾られた。市中では各戸ごとに日章旗を揚げ、提灯を点じて美観を添えた。
三十九年四月二十一日、公園四の郭(今の護国神社の位置)に祭壇を設け、日露戦争当時の第二軍司令官・奥大将を迎えて、第八師団管下の五県連合の臨時招魂祭を行った。この日北の櫓(やぐら)(今の護国神社の向かい南側にあった)が花火のために焼失した。そしてこの年八月二十二日の夜に、今度は西の櫓(高山稲荷神社の向かい側西南隅)が炎上した。これは、学生が集まって喫煙したための事故ではないかと言われた。一年に二度も災厄でこれら建造物を失ったのはまことに残念なことであった。なお、招魂社が上白銀町から公園四の郭に移転新築したのは明治四十三年十二月である。