明治の衣服の流行には、女学生の存在を無視することができない。まず、女性の革新的風俗と言われた女学生が袴(はかま)をはくことは、東京でも明治三十年以後のことで、跡見女学校やお茶の水
高等女学校などが最初であった。弘前ではあまり後れず、三十三年六月に
高等小学校の女生徒がこれをはき出している。これもまた軍人の子女の影響であった。彼女らが東京風の袴姿で転校してきたことを羨んだのがきっかけで、地元の女生徒の強い要望が現れたのである。初めは、学校側や父兄にも経済上や風紀上の反対意見がやかましかったが、時勢の赴くところ結局許可することになった。この袴地は、当時、代官町の「角は」と土手町の「角み」両呉服店が一手に引き受け、その注文に大多忙であったと言われる。とにかくこうして「エビ茶式部」が旧
城下町の古来の女子風俗を変える第一歩ともなったのである。
三十三年に開校した県立
第一高等女学校(のち県立
弘前高等女学校、現県立弘前中央高等学校)の新入生は、開校式には竪(たて)縞の糸織の着物で行ったが、ふだんは母が織った手織を着て通学したという。当時大
光寺(現平賀町)の富豪の娘が、紋羽二重の牡丹色の羽織を着ていたのが羨望の的であったという。袴はカシミヤ地が上等であった。
写真126は、いずれも明治三十七、八年ごろの同校生徒の服装だが、右は縞の手織木綿、中央は流行の矢絣(やがすり)、左は贅(ぜい)沢な被布(和服用コート)を着ている。同じ時代でもこれだけの違いがあったのである。
写真126 当時の女学生(明治37年)