伝道の日々

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翌三十二年のメソジスト派の年会で重治は伝道師に任命され、巡回牧師として全国を回った。この年十月には兄久吉が弘前教会で正牧師をしていた。重治の伝道は爆弾的伝道と言われた。彼への各地からの招きは一年前から予約しないと応じ切れないほどだった。この忙しい中で、彼を悩ませた慢性のトラホームを信仰で治した。シカゴで教えられた神癒の信仰をみずからに証(あか)し立てた。この年『焔の舌』を創刊した。最初は、同郷の先輩で、青山学院時代の恩師山田寅之助と共同で始めたが、後には重治の編集・発行となった。内容が闘争的であり、挑戦的であったので「咬みつく犬」と言われた。重治は全国を巡回して、メソジスト派を離れて自由に伝道したい気持ちになり、派を脱退した。明治三十四年二月二十二日、中田重治をシカゴで応援したカウマン夫妻が来日したので、神田の古い私塾の建物を借りて共同生活をし、中央福音伝道館を開き、昼は聖書教室、夜は伝道館とした。
 このころ、キリスト教界では「二十世紀大挙伝道」が行われていた。十九世紀は世紀末(ファン・ド・シエークル)を終わり、新しい世紀に入ったので、何となく世の中は希望に燃えていた。日本も国家としての力を充実させつつあった。中田は福音音楽隊を帯同して、昼は行進、夜は奏楽と説教をして大活躍だった。かつて学んだムーディの方式をまねたのである。明治三十五年八月、中田はカウマンや修養生らと福音伝道隊を組織して弘前にもやってきた。そのときの写真を見ると、「日本福音伝道隊 福音を信ぜよ」という長い垂幕と、「基督(キリスト)教福音伝道会××大合戦」という文字を入れた長い張り布を教会堂の面前に掲げ、その前にカンカン帽と鞄を提げた中田を中心に、鳥打帽の三谷種吉やカウマンが後ろに並び、前列にはラッパを携えた鈴鹿正一や大太鼓の米田豊、その他楽器の伝道隊員が学習院に似た学生服・学帽で立っている。このとき、後の青山学院院長阿部義宗も聴講に来ていた。

写真130 福音音楽隊、弘前教会前にて

 明治三十七年二月十日、日露戦争が始まった。基督教青年会同盟委員長の本多庸一は、福音同盟会の小崎弘道とともに従軍布教師または軍隊慰問師を派遣することについて檄を飛ばした。
 本多は、メソジスト・エピスコバル派の日本年会の任命した韓国伝道委員会の委員長を兼ねて出発することになり、同行者にその弟子だった中田重治を選んだ。中田は五月十六日釜山に上陸、二十六日には歩兵第二四連隊にて本多とともに説教をした。その後各地を巡り、七月二十八日に帰京した。中田は本多のことを「先生は武官や役人に対して非常に鄭重に礼儀を正しくし、「彼らはこうしておけば喜んでいる」と言われた。宿に着き、床に横われば、直ぐに寝入っていびき声雷の如しだ」と後に書いている。
 三十七年十月三十一日、聖書学院は豊多摩郡淀橋町柏木に新築された。募集は寄宿生一〇〇人で寄宿費月六円、修学年限二年、夫婦でも清韓人でもよく、入学期はなかった。教科書は新旧約全書一巻、志願者は霊肉に関する履歴書を添えて出すことだった。三十八年四月妻かつ子が女児を生んだ。ちょうど復活日だったのでリリー(百合)と名づけた。それまで羽後、陸奥、京など生まれた地名にちなんだのに、これは番外で珍しかった。子供はこの後、豊子が生まれた。